だけど、瀬戸内寂聴さんからお声がかかって、「週刊朝日」に往復書簡を連載することになりました。これは手紙だから、話し言葉の延長みたいなもの、苦になることはなかったです。話すように書けばいいので、相手が文学者であっても、そんなに緊張はしませんでしたが、文通を始めて2年ほどした頃、瀬戸内さんが病気になられて、とうとう帰らぬ人になってしまわれました。残された僕は、その後をついで、心の思うままの駄文を連載することになりました。
日頃、考えもしないことを、編集者の鮎川さんからお題をいただいて、それに答える形で今日まで書かせていただきましたが、突然、「週刊朝日」が100年の幕を閉じることになってしまいました。この連載を通して自分が日頃何を考えているかが、文章を書くことによって見えてきました。自分でも「ヘェー、こんなこと考えているんだ」と思うこともあって、この仕事は僕にとってはお仕事というより、お遊びであったように思います。
それが突然、休刊によって、お遊びを取り上げられてしまいました。1週間に1本というのは、僕にとっては、丁度いいローテーションで、毎週、2本のエッセイを入稿していましたので、〆切に追われることはなく、逆に編集者を追う形になっていたと思います。これも僕の遊びです。1週間単位でエッセイを連載したのは、「週刊朝日」が初めてでした。最初は、「書けるかな」と腰が引けていましたが、この仕事は絵を描くサイクルと丁度上手く噛み合って、仕事と生活のリズムを作ってくれました。
それが、今回でこのリズムが狂ってしまうのです。絵だけを描いている作業は、健康によくなく、こうして、週イチでエッセイを1本書くことで、絵も上手く回転してくれていましたが、「週刊朝日」の休刊で、そのリズムが破綻をきたしたのです。
戦後薄っぺらい「週刊朝日」がわが家に1冊あったのを記憶しています。表紙は洋画家の絵だったように記憶しています。その後、今日まで、「週刊朝日」には縁がなかったように思います。一度、林真理子さんに呼ばれて対談をしました。10年ほど前には田原総一朗さんとの対談がありました。似顔絵に一、二度登場したりもしましたが、他に思い出すことは20歳の頃、読者欄にカットを投稿してそれが掲載されたという古い想い出がひとつありました。それにしてもあまりご縁のなかった「週刊朝日」で瀬戸内さんとの連載が始まった時は、夢のようでした。朝日新聞出版の他の雑誌には色々とご縁がありました。「朝日ジャーナル」や「AERA」の表紙を描いたり、「アサヒグラフ」や「AERA」の表紙に出たりはしましたが、連載の仕事は「朝日ジャーナル」に短期のイラスト時評ぐらいです。
「週刊朝日」の連載者は千回を超えた執筆者が何人もおられます。すると先がそんなに長くない僕でも、もしかしたら死ぬ週まで連載ができるかな、と期待を抱いていましたが、僕より先に「週刊朝日」が逝ってしまいました。最近は重要な人達の逝去が多すぎます。その理由は、この社会に対する反省と自律を促しているように思いますが、「週刊朝日」の休刊も例外ではなさそうに思いますが如何でしょうか。
横尾忠則(よこお・ただのり)/1936年、兵庫県西脇市生まれ。ニューヨーク近代美術館をはじめ国内外の美術館で個展開催。小説『ぶるうらんど』で泉鏡花文学賞。2011年度朝日賞。15年世界文化賞。20年東京都名誉都民顕彰
※週刊朝日 2023年6月9日号