芸術家として国内外で活躍する横尾忠則さんの連載「シン・老人のナイショ話」。今回は、「週刊朝日」について。
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自分が何を考えているのか、濃霧の中を歩いているようで茫漠としてよくわかりません。僕の絵はそのような状態を描いているのかも知れません。絵には言葉がないが、絵だって言葉にできないけれどれっきとした視覚言語だと思っています。言葉にできない言葉を絵という造型物で語ろうとしているのです。絵の伝達は面白い。見る人が、絵を見て、考えたり、思ったり、直感したりします。意味など考えなくて、いいのです。
絵は一瞬で世界を語ってしまいますが、文字や言葉にしないと「わからん」という人も結構多くいます。画家からすればそこが面白いのです。小説家は、どういうわけか悩むのが好きそうに見えます。悩んでなさそうな深沢七郎さんだって悩んでおられたのです。また小説家は本を書くことで征服したいんじゃないでしょうか。どうも文学者は作家論など書いて自分のものにして、乗り越えないと気が済まないんじゃないでしょうか。
画家は絵を描くことが遊びであると思っています。どうも文学者はそう思えないらしいです。画家は寿命が長いから、時間を持てあますから、つい遊びたくなるのです。文学者は、寿命が短いと思っているので余裕がないのか、作品に遊びがたりないように思いますね。僕は関西人だから、ラテン系です。とにかく生活、仕事そのものを遊びと考えています。またふざけるのが大好きです。生きるのも軽く生きたいのです。だから画家には向いています。悩むのが大嫌いです。悩む人はだいたい言葉で悩みます。
僕は子供の頃から、ラテン的体質を成長させるために、知的なメディアに対しては興味が持てなかったような気がします。知的なものに興味を持てば子供心に必要なラテン感覚がなくなってしまいます。だから本に興味がなかったのも、そのことが理由だったのかなと思います。