日本を代表するインタビュー番組「徹子の部屋」は、1976年のスタートから今年で48年目を迎えた。「100歳まで続けたい」と語る黒柳徹子さんの尽きない好奇心と健康の源とは?
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1972年の夏のことだ。ニューヨークの演劇学校に通っていた徹子さんのもとに、NET(現在のテレビ朝日)のプロデューサーから電話があった。「日本で初めてのニュースショーがスタートするのですが、その司会をやってもらえませんか?」という依頼だった。
「ニューヨークに留学して1年、まだ日本に帰るつもりはなかったんです。でも、女性がメイン司会者のニュースショーができるというお話には興味を持ちました。それまでのニュースショーやワイドショーといえば、女性はアシスタント的な存在で、男性のそばでニコニコしていればいい、という感じ。おまけに、観ている主婦の反感を買わないように、主婦か主婦の経験がある人でないとダメと言われていた時代です。服装も白いブラウスに紺のスカートがお決まりだったので、『私は主婦でもないし、主婦の経験もありません。白いブラウスに、紺のスカートのような服装もできません』とお伝えすると、『今はむしろ、あなたのような独身でプラプラしてる方の感性が必要なんです』とおっしゃる(笑)。好きな服を着てもいいということだったので、『じゃあ帰ってみようかな』という気になったんです」
その頃、徹子さんが演劇学校で知り合った仲間は、年齢もバックグラウンドもバラバラ。肉体労働などで生活の糧を稼ぎながら、芝居のオーディションに挑戦している40代、50代も少なくなかった。誰もが夢を追いかけて集まるニューヨークで、必死で夢を追う人たちとの出会いによって、自分を必要としてくれる場所があるありがたみを再認識してもいた。
徹子さんが担当したニュースショー「13時ショー」は、76年2月に「徹子の部屋」というインタビュー番組になった。番組内容が変わるにあたって、徹子さんはいくつかの条件を出した。