1937年、東京帝国大学教授であった矢内原忠雄が自身の言論活動を理由に、自ら職を辞したことにより知られる「矢内原事件」。本書はこの事件に光を当て直す試みだ。
 従来、矢内原事件は戦前・戦中時の政治権力による言論抑圧の一環と説明されてきた。それに対し著者は「マイクロヒストリー」と呼ばれる手法を用い、出版社・文部省役人・東京帝国大学総長など事件に関わった様々な人々の視点から事件を再構成する。臨場感溢れる記述により、事件の核心は矢内原個人の頭上を超え、大学総長と政治圧力との関係にあったことが明かされていく。
 終盤では事件が現代に残す教訓として、言論抑圧をめぐる認識の問題が挙げられる。ひとたび言論抑圧が起これば、それを一市民が把握することはできない。であればこそ「どの言論人が何を言ったか」ではなく「どのような言論人が表舞台から消えていったか」への注目こそが重要なのだと著者は言う。秘密保護法などにより言論規制をめぐる問題に関心が高まる現在、その指摘は切実さを帯びている。

週刊朝日 2014年11月7日号