初めてラジオの深夜放送を聞いたのは、たしか中学1年生の2学期ごろだった。1969年(昭和44年)のことである。おいおい、いつの間に半世紀近くも経ったんだよ。
東京の人間にとって当時の深夜放送ビッグ3といえば、67年放送開始のニッポン放送「オールナイトニッポン」、TBSラジオ「パックインミュージック」、2年遅れで始まった文化放送「セイ!ヤング」だった。
自社アナウンサーを“パーソナリティ”に起用(声優など社員以外の起用率が高かった「パックインミュージック」は、いま思えばやや異色だったよね)して、彼らのおしゃべりと投稿葉書の読み上げと音楽。この三つを軸に番組を進めていくのが基本パターンだった。
糸居五郎さんのように、楽曲選びからレコード回しまで1人で行ったという、アメリカ流“ディスクジョッキー”にこだわる人もいたが、兄貴分のような“パーソナリティ”の人柄が醸し出されるおしゃべりと、どこの誰かは知らないリスナーの葉書を介して、ラジオの前では1人だが、いろいろな人と同じ時間と世界を共有しているかのようなインチメートで不思議な気分にひたれたものだった。こうして深夜放送は瞬く間に人気を博すことになっていった。
わたしが聞き始めたのはまさにパーソナリティによる深夜放送の黎明期。一リスナーとして日本のラジオ史に残るであろう一つの時代に参加していたのかと思うと、感慨もひとしおである。いたずらに馬齢を重ねてきたジジイである証拠、ともいえるのだが。
当時は学生運動が盛んな政治の時代でもあった。わたしたちより一世代上の団塊の世代が中心となって大暴れしていたものでした。わたしは何も知らないガキだったけれど、当時の記憶から思い返せば、学生運動の活動家からは「プチブル」と糾弾されるような放送内容だったような気がしないでもないが、なあに全学連の連中だってきっと聞いていたはずだ。ごく普通の大学生も、田舎の高校生も、性に目覚め始めた中学生も、もちろん進学せずに就職(当時の大学進学率は20%に満たなかったことに留意されたい)していた若者も、ラジオから聞こえてくる、自分だけに向けて語りかけてくるような“パーソナリティ”の言葉に、みな等しく泣き、笑い、勇気づけられたことだろう。
中学1年生でヴァイオリン修業のために単身上京したというさだまさしさんもそんな1人だったに違いない。さださんはファンならご存じの通り、グレープ時代に「セイ!ヤング」のパーソナリティを務め、帯番組だった「セイ!ヤング」が終了してからも、週末だけとはいえ「さだまさしのセイ!ヤング」を復活させ、12年半にわたって担当した深夜放送のツワモノである。
本書『ラストレター』は、深夜放送の黎明期をリスナーとして育ち、全盛期から衰退期にいたる時期を送り手として過ごしたツワモノが描いた、深夜放送をテーマにした作品である。面白くないはずがないではないか。
寺島尚人は東亜放送入社3年目のアナウンサー。東亜放送は都内キー局4社中、聴取率がほとんど3位というラジオ局である。尚人は聴取率アップを目論む新局長の前で、うかつにもベテランプロデューサー受け売りの大言を吐いてしまう。そしてその結果、ニュースやバラエティなど、ジャンルを問わず便利に使われていた新米アナウンサーは、深夜枠に自分の番組を持たされることになった。そうしてスポンサー枠が埋まらないまま、「今夜も生だよ寺ちゃんのサタデーナイト・レター」の放送がスタートしてしまう。
携帯電話、メール、ツイッター、ライン……。人と繋がるシステムがあふれている現在、あえて葉書による投稿にこだわった昔気質の番組が奇跡を起こしていく。
社内で放送禁止ワードを大声で叫ぶプロデューサー、駄洒落を口に出さずにはいられないディレクター。怪人揃いのスタッフに囲まれた平成育ちの若者が、昭和という「貧しくても不幸とは限らない時代」の息吹をリスナーの葉書から甦らせ、「ラジオの原点回帰」と「心の初期化」を具現化させていく。女性には奥手で少し頼りないけれど、「一緒に泣いて、一緒に笑ってくれる、心のこもった本当のパーソナリティ」へと尚人は成長し、「誤魔化さずにじっと一途に体温」を伝える番組へと育てていくのだ。
非寛容な社会へと拍車がかかっていく現在こそ、こんな番組が必要なのではないのか。こんな繋がり方を思い出さなくてはいけないのではないのか。マイクからではなく、本のページを介して、そうしたさださんの声が聞こえてくる。本書はそんな小説なのだ。