『MUSIC FROM BIG PINK』THE BAND
『MUSIC FROM BIG PINK』THE BAND
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 ニューヨークのアトランティック・スタジオで録音されたクリームのセカンド・アルバム『ディスラエリ・ギアーズ』が発売されたのは1967年秋。翌年春には《サンシャイン・オブ・ユア・ラヴ》が全米5位のヒットを記録し、クリームと、そのギタリスト、エリック・クラプトンの知名度と評価は飛躍的に高まった。恵まれたルックスと斬新なファッション・センスなど、演奏家としての技術や感性とは別の次元でも、まだ20代前半の若さだった男の人気は沸騰していく。コンサートの規模も日増しに大きなものとなっていった。

 だが、高い演奏力を持つ3人だけのライヴは、極度の緊張を強いた。クラプトンのソロ・パートでも、ジャック・ブルースとジンジャー・ベイカーは全力で挑みかかってくる。「果たし合いのよう」とも形容されたそのパフォーマンスに、しかし、観客は熱狂した。クラプトンは心身ともに疲れ、「もう降りたい」と思うようになった。何度かその意思をマネージメントにも伝えたらしい。

 まさにその時期、具体的には68年初夏、彼はザ・バンドと名乗る5人組のデビュー作『ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク』を聴き、強烈な衝撃を受けた。打ちのめされた。後年クラプトンは、あるイベントでザ・バンドを紹介する際、「彼らは僕の人生を変えた」とまで語っている。

 南部出身のロカビリー・シンガー、ロニー・ホウキンスのバック・ミュージシャンたちが独立する形で行動をともにするようになった彼ら(アメリカ人1人、カナダ人4人)は、このWEB連載の第2回でも紹介したとおり、ヤードバーズとの共演を終えてイギリスから戻ってきたサニー・ボーイ・ウィリアムスンに「連中の演奏はひどかったけれど、お前たちはいい」と言わせていた。旅のなかで学び、互いを鍛えあった彼らは、その後、ボブ・ディランとも行動をともにし、伝説的な『ベースメント・テープス』をへて、『ビッグ・ピンク』を仕上げたのだった。

 オーガニックなハーモニーとでも呼ぶべきか、そこで彼らは、抑制された演奏で、なによりも歌そのものを大切にしていた。《ザ・ウェイト》や《ティアーズ・オブ・レイジ》など、味わい深く、物語性豊かな歌の数々は、クリームと対極にあるものだった。クラプトンは自分たちの音楽を「愚かで、とるにたらないもの」とまで感じたという。結局、サード・アルバムの制作を前にして、彼の心はクリームから完全に離れてしまったのである。[次回8/13(水)更新予定]

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