写真、左から「流れるようなポーズを繰り出す男 2009」「えんこ(浅草)生まれよ!! という男 2009」「銀ヤンマに似た娘 2011」(C)Hiroh Kikai
写真、左から「流れるようなポーズを繰り出す男 2009」「えんこ(浅草)生まれよ!! という男 2009」「銀ヤンマに似た娘 2011」(C)Hiroh Kikai
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浅草で出会った人びとを浅草寺の境内で撮り続けること。1973年からはじまった鬼海弘雄さんの「浅草ポートレート」は現在進行形のシリーズだ。ひとりの写真家がひとつの場所でこれほど多くの肖像を撮り続けた例は世界にも類がない。1000を超える人びとを見渡せば、誰もがきっと「誰か」のことをなつかしく思いうかべるのではないだろうか。40年来の作品を『世間のひと』(ちくま文庫)として発表した鬼海さんに話を聞きました。その第1回目をお届けします。 (インタビュー:池谷修一・アサヒカメラ編集部)

鬼海さんが浅草で長年撮られて来た作品が以前から文庫でまとまるというお話は聞いていたんですが、最終的には、どんな考えで今回のかたちになったんですか?

鬼海 まぁ最初の方のページは、私にとって「ネガ帳」みたいなもんです。そこでは、これまで出してきた写真集では使っていないカットも出せるからよいかなぁって思ったんですよ。はじめたころは、まだ人物のバックが「壁」じゃないでしょう。浅草や上野とかの近辺をいくら歩いていても、スナップみたいなものを撮っていたわけ。それが、やがて無地の壁に落ち着く。それまでもがわかるようにね。

ああ、だから「ネガ帳」。

鬼海 そうなんです。ちょっと意識して壁を入れて撮ってるけど、そういうのをやり続けて、やっぱり「あぁポートレートは無地だよねぇ」って自分の中に落ちる。それも、バラしてあげようって思ったわけ。最初からかたちがあって行くんじゃなくて、手探り状態が結構ある。それで、こうやって見つけるんだっていうところね。最初から30枚くらいは、なんかこう、“探してた”っていう感じがあってねぇ。

ところどころに短いエッセイが入っていますけど、それはその前後に載っている作品との関係は?

鬼海 エッセイは全部で24本入ってますけど、それは『ちくま』の表紙で連載した時に書いていたものを発表順に並べたんですよ。充分に意識して並べたりすると、かえってちまちまとするから。あるがままにって感じで。写真ばっかりだと疲れるけど、何枚かめくると短いエッセイが入るから非常に、いいインターバルになるっていう感じでねぇ。

鬼海さんの写真集は、写真それぞれに添えられた文章というか、キャプションが大きな意味を持っていますよね。

鬼海 でも最初の頃は、そんなことは考えてなかったんだよね。わりかしさらーっと、してたね。ほら、写真てのは、客観的なものだから、あんまり思い込みの文は入らないもんだというか。写真表現と文章表現とは分かれるっていう感じが、ムード的にはあったのかもね。

自分の中にですか?

鬼海 周りの雰囲気も。で、そんなことはないな、ってなってきたのは、50歳近くになってからじゃないかな?

写真と文章の合わさり方が自分の中で変わっていった?

鬼海 一緒の器に盛ってもオーケーって感じになったのね。それからは積極的にお互いに補強し合ってできあがってくるものが表現だと思って。そこには、「純粋文章とか純粋写真とは?」 と言われても私にはぜんぜん関係なくなったっていうことです。

それ以前は、文字は無い方がやっぱりいい、という感じが自分のなかでもあったわけですか?

鬼海 いや、文字があると“リードする”じゃない? 想像力をね。すると、みんながリード無しで(写真を)読んでくれた方がいいだろう、と前は思ってたわけだよ。でも、そんなことはないなぁって思って。いっぱい技があって、ちゃんとしてた方が良いんだと。

鬼海さんは、よく「写真家は言葉を持たなくてはいけない」って言うじゃないですか。写真を撮るってことは、言葉があることだって。そういうことを考えることと、じゃあ実際に自分の写真にリアルな書き文字が寄り添うようになっていったことは関係ありますか?

鬼海 あると思います。文章書くのだって、本当にそんなにすらすらといくわけじゃないし、写真だってすらすらといくわけじゃないですよね。 というのは、レンズで撮ったものが写真じゃなくて、記憶とかね、自分に内在しているものをなんか引っぱり出したいと思うわけでしょ。こういうもの撮ったら、自分のだけじゃなくて、見てくれる人の中に沈んでいた想像力を引っ張ってくれるだろう、と。例えば報道写真とか週刊誌の写真だと、返ってそれはいらないわけです。この人が犯人よ! とかこの人はこうだ!っていうかたちで撮る方が、みんな安心して写真を見るわけだから。

「わかりやすい写真」とのちがいですか。

鬼海 写真って表現の中で、個人とか自分とかを考えるとしたら、やっぱりどうしたってそっちに入って行くよね。わたしの写真は、説得しているわけじゃないし、特別何も言っているわけじゃないのね。「写真が話すかどうか」っていうのは、もう読んでくれる人の想像力にかかっているわけです。

鬼海 ちゃんと撮った写真は、「何回見ても大丈夫」っていう言葉を隠してる。それは、主体的に見る人がそう思うんだよね。撮る方が「こうだから」っていうんじゃなくて、見てくれる人が写真を見ることで自分の中に入って、そこで記憶の底に沈んでいたものが揺り動かされてくる。だから、見飽きない。それはたぶん小説でも同じだと思う。いい小説は、絶えず新しく人を刺激して新鮮に見えるから。

写真が読み手を新しく刺激するんですか?

鬼海 そう。読み手を刺激する。それは、とんでもない宇宙へ行くんじゃなくて、当たり前のところに、ふっと入って行くっていうことなんだと思うんだけどね。

(次回に続きます)

鬼海弘雄(きかい・ひろお)1945年山形県まれ。法政大学文学部哲学科卒業後、さまざまな職業を経て写真家に。73年から浅草で撮り続ける肖像写真群は『王たちの肖像』『PERSONA』『Asakusa Portraits』などの写真集にまとめられ、海外での評価も高い。長年に渡りテーマを追い、インドやトルコを撮り重ねる各シリーズも継続中。『東京迷路』『東京夢譚』など東京各地を歩いた作品集でも知られる。エッセイ集に『インドや月山』『眼と風の記憶』などがある。

関連リンク
『世間のひと』(ちくま文庫)1728円(税込)