これほど人間臭い小説があっただろうか。韓国の人気作家キム・ヨンスが描き出す7編の短編小説は、「自分が誰なのか、どこにいるのか、忘れてしま」っている登場人物たちによって紡がれている。
 夢を追い切れなかった男、過去に犯した過ちで苦しむ老人、自分の成長と向き合えない少女。本書の登場人物は、過去によって苦しみ、現在に悩まされている人ばかりだ。「当惑、惨めさ、怒り、憎しみ」のような感情を心に抱き、自分の存在のつかめなさに苦い表情を浮かべている。彼らは、巻末の短編「月に行ったコメディアン」に出てくる視力を失った男のように、空も星もない「暗黒の空間」に立っているのだ。
 著者はこのような個々人の内面の葛藤だけでなく、警察との衝突によって6名が犠牲となった「龍山惨事」などの社会問題までをバランス良く描きつつ、その狭間を生きる人々に「私たちは幸せに暮らす権利がある」とエールを送っている。人の傷を描く著者の言葉からは優しさが滲み出ていて、心の温まる小説である。

週刊朝日 2014年4月4日号