人生の終わりにどんな本を読むか――。古本屋「弐拾dB」店主・藤井基二さんは「最後の読書」に詩集『田舎の食卓』(木下夕爾)を選ぶという。
* * *
古本には声があり、音がある。その音に耳を澄ませたいという思いから店名は「弐拾dB」とした。20デシベル、普段は聞こえない微かな音の大きさ。と言えば格好がつくだろうか。由来を聞かれるたび、どこか恥ずかしい。23歳の勢いで開店した古本屋は今年の4月で8年目になる。
開店時間は23時から27時まで。「真夜中の古本屋」という惹句で紹介される。もともとはバイトの空き時間で店を開店する手前、自然と夜営業になった。お客さんは来るのかとよく聞かれるが、それが来るのである。一人、二人だけの夜はザラだが、入れ代わり立ち代わり、客足が絶えない夜もある。また、このお客さん達が店に物語を持ってきてくれるのだ。
一人旅の青年に可愛らしいカップル、親子連れに酔っ払い。一人で来ていたお客さんはいつの間にか薬指に指輪をつけ、今では絵本を数冊抱えて番台にやってくる。ロマンチックな夜があれば、喧嘩もあった。人情噺に馬鹿話、嘘みたいな本当のこと。まるで、この店が一冊の本のようだ。ある声が一行になり、夜のひとときが一頁となった。この本を(店を)死ぬまで読み続けていたい。
何十年後のいつか。古本爺になった僕の手には、木下夕爾詩集『田舎の食卓』。まだ20代だった時に欲しくてたまらず、買い求めた一冊だ。夕爾は家業の薬局を営みながら詩を書き続け、生涯故郷の福山を離れることはなかった。言葉の爽やかさのなかに詩人の切なさが滲んでいる。復刻本だが酒の勢いを借りなければ買えない値段だった。どうせ死ぬなら、最後もこの店がいい。店を閉じて、本も引きはらった店内でひとり、頁をたどる。
「厚ぼつたい本を閉ぢるやうに夏が終つた/宿題を終へた中學生のやうに/僕らはもう思ひ出さないだらう/地の果に消えた/幾何學的な線をもつた雲の連なりを…」(木下夕爾「秋のほとり Fragments」より)
薄い詩集には僕の人生も流れている。お客さんとの思い出を栞にして、本の声に耳を澄ませよう。遠くなった耳でも聞こえるはずだ。
※週刊朝日 2023年3月17日号