三谷幸喜による時代小説『清須会議』は昨年6月に刊行された。当時も話題になったが、映画化に先んじて文庫化され、再び部数を伸ばしている。表現分野は何であれ、三谷作品はとにかく人気があるのだ。
 その人気は、これまで三谷が手がけた演劇、ドラマ、映画の安定した質の高さ、そして映画のプロモーション時になるとテレビジャックよろしく数多(あまた)のバラエティ番組に登場して見せる奇妙な言動によって培われてきた。頑固で滑稽ながらどこか憎めない人柄は、そのまま彼の作品とそこに登場する人物たちにも通じ、他では味わえない「三谷幸喜らしさ」として支持を集めている。
 この「らしさ」を生み出す根底には、いつも三谷ならではの視点がある。今回の小説でも、戦(いくさ)の場面のない、織田信長亡き後の家督継承会議に着眼。史実として、その結果の重要性(秀吉が幼い三法師を担いで天下統一へ向かう)は認めるが、派手さには欠ける五日間を描いている。さらには議事進行役の丹羽長秀を重視し、過去の時代小説ではさほど注目されなかった丹羽の思惑の揺れを通じて、対立する柴田勝家と羽柴秀吉の心理戦を際立たせる。
 こうした着眼の奇抜さは書き方にも反映され、登場人物のモノローグや議事録によってストーリーが展開していく。しかも、その文章が橋本治ばりの現代語訳で綴られているため、読者は会議に臨む人々のそれぞれの性格や権謀術策を難なく、苦笑しつつ理解する。そこには人のあらゆる欲と恨みと情が集約されているから、共感や反感が次々と湧いてくる。知人の顔も何人か浮かんできて、ふと、自分だったらどんな判断をするだろうかと考えたりもするだろう。
 かくして無理なく「三谷幸喜らしさ」に巻きこまれ、読者は、清須会議に参加した気分すら味わいながら5日目を迎える。そして読了した人の多くが、三谷の術策どおりと知りつつも、映画も観てみたいとつい思う。

週刊朝日 2013年12月6日号