1968年の秋、東京、京都、函館、名古屋で4人が射殺された、いわゆる「連続射殺魔事件」。容疑者として逮捕されたのは当時19歳の永山則夫。一審は死刑、二審は無期懲役となるも、90年に死刑が確定。97年には死刑が執行された。
忘れられようとしていたそんな事件に新たな光を当てたのが、堀川惠子『永山則夫 封印された鑑定記録』である。〈二一年もの歳月を費やして行われた裁判も、その解明には何の役にも立たなかった〉と著者が書く理由とは何だったのか。
一審の公判中だった74年(24歳当時)、永山は8カ月に及ぶ丁寧な精神鑑定を受け、鑑定担当医の石川義博医師は100時間分もの録音テープを保管していた。それらを手がかりに、本書は知られざる永山像と事件像を浮き彫りにする。
なによりもまず言葉を失うのは凄絶としかいいようがない永山の生育歴だ。8人きょうだいの下から2番目(四男)に生まれ、北海道と青森ですごした子ども時代。永山は〈おふくろは、俺を三回捨てた〉と語っている。想像を絶する死の恐怖。子ども時代の虐待が後の人格形成にどれほど暗い影を落とすか。石川鑑定は当時まだ一般的でなかったPTSD(心的外傷後ストレス障害)を援用したはじめての鑑定となった。
「無知と貧困」という永山のイメージを覆す事実はそれだけではない。彼の獄中ノートをまとめた『無知の涙』がベストセラーになったのは71年だが、彼はけっして「無知な少年」ではなかった。犯行前からドストエフスキーを愛読し、『罪と罰』や『カラマーゾフの兄弟』を読み込んでいた。自身と作中人物とを重ね〈兄弟を見ちゃうんだよね。スメルジャコフと俺がだぶっちゃってね〉。そして彼はノートに書く。〈「無知」、これでなければならなかったのだ〉。
兄たちとは異なる悲惨な境遇で育った『カラマーゾフの兄弟』の四男スメルジャコフ。え、なんで? と思った方は一読を。推理小説よりはるかにサスペンスフルである。
週刊朝日 2013年6月14日号