32歳で逝ったサラリーマンの男が3年後に生きかえる。男は勤務する会社のビルの屋上から飛びおり自殺したのだが、本人はある人物に殺されたと思っている。しかし、その人物の行方がわからない……。
 平野啓一郎の長篇小説『空白を満たしなさい』は、これまでの小説や映画にもよくあるよみがえりの設定ながら、生きかえった人間が出現した時の周囲や社会の反応、中でも家族の困惑の描写が丁寧で生々しく、無理なく引きこまれる。生きかえった死者、作中では「復生者」と呼ばれる者がもしも身近にいたら、おそらくそのようになるだろうと思わせる筆力に導かれ、読者は主人公とともに、彼の死因を探りはじめる。
 少々思いこみが強いものの実直で勤勉な主人公。どこにでもいそうな気のいい彼の迷走と思索を追いながら、読者はどうしたって自身の死生観と向きあうことになる。一度は永遠に失った自身の「生」を検証する彼の視座に立って、つい自分を見つめてしまう。
 たとえば、幸福を求め、あるいは手に入れた幸福を維持しようと努めるために生じる疲弊が、じわじわと自身の生きる気力を蝕んでいるのでは、という問いがそこに浮上する。その果てに、死ぬ気などまったくなかった者が、直後に自ら命を絶ってしまうのではないか。そうならば、その時、自分を殺した真の犯人は誰か──この小説が従来のよみがえり小説にない深みをもっているのは、この究極ともとれる問いと、その解明のために用意された「分人」なる考え方だ。
 対人関係ごとに変わる自分を、「個人」に対して「分人」と呼ぶ思考は、最近の平野のテーマでもある。この考えに基づいて自分と向きあえば、人はもう少し生きやすくなるのではという平野の思いは、作品の底流となっている。
 かくして、上質なホラー・ミステリーを楽しむ気分でたどりついた先には、静かな哲学の時間が待っていた。

週刊朝日 2013年2月22日号

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