春の大阪大会を制した大阪桐蔭は、夏も上宮、PL学園に次いで有力視されていた。谷口は2回戦の大阪商大付戦で7回参考ながらノーヒットノーランを達成。準々決勝のPL学園戦では打たれて4回途中降板も、2年生左腕・福井強が踏ん張り、8対9の9回に劇的な逆転サヨナラ勝ちを呼び込んだ。

 だが、準決勝の履正社戦は、谷口が初回の2失点だけに抑えながら、打線が決定打を欠き、1対2と惜敗した。

 日本生命を経て、02年にドラフト4巡目で近鉄入りした谷口は、左肘を2回も手術するなど、相次ぐ故障に悩まされ、オリックスを最後に05年限りでユニホームを脱いだ。

 98年は170センチと小柄ながら投球術が巧みな福井がエースとなり、4番・水本圭介(元西武など)ら強力打線をバックに、2年連続で春の大阪を制覇。センバツ準Vの関大一とともに北大阪大会(同年は大阪から2代表)の優勝候補だったが、3回戦で金光第一に4対5でサヨナラ負けを喫した。

 水田とともにプリンスホテル入りした福井は、同社野球部が廃部になった特例で1年早く01年にドラフト8位で西武に入団したが、1軍出場のないまま、04年限りで引退した。

 00年のエースは、最速143キロ右腕・桟原将司だった。

 同年の大阪桐蔭は、のちに阪神で一緒になった2年生左腕・岩田稔も背番号11でベンチ入りし、中村剛也(現西武)が4番を打つなど、レギュラー9人中5人が2年生の若いチームだった。

 初戦の箕面自由戦に先発した桟原は、速球を武器に三塁を踏ませず、3安打10奪三振完封勝ち。

 だが、4回戦の大体大浪商戦では、2回と4回に集中打を浴び、計7失点。中村も4打数無安打に終わり、3対7で早々と姿を消した。

 新日鉄広畑入社後、最速150キロをマークした桟原は、04年にドラフト4巡目で阪神入り。1年目に44試合に登板し、2勝2セーブを挙げたが、翌年以降はしだいに出番も減り、12年の西武を最後に引退。阪神時代の05年には3者連続3球三振の珍記録を残している。

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「弱くて甲子園は絶対無理」を覆した投手は?