曰く、マドンナはポルノ的なものをメジャーなエンターテインメントに昇華させ、まるで新しいフェミニズムのように評価されたが、それは正しかったのか? 体を締め付ける服を着て、ピンヒールを履くことは、女性にとってのパワーなのだろうか。化粧や美容整形をした姿に自信をもつことは、女性の解放なのだろうか。ポルノに出演したり、性産業で働いたりすることは、女性の主体的な選択として全肯定すべきなのだろうか。「あなたの選択」とされてきた一つ一つにひそむ罠を、シーラ・ジェフリーズ氏は執拗に解き明かそうとする。なぜなら、もし、マドンナ的な生き方が女性をエンパワーしたというのなら、いまだに女性たちがいばらの道を歩いている説明がつかないからだ。巨大化する性産業、美容産業、ファッション産業によって女性たちは解放されたというより、より食い物にされているのではないか、と。
マドンナ自身は、自身が味わっている年齢差別について機会があるごとに発言している。マドンナのセックスアピールは今やエイジズムとの闘い、ということでは筋は通っているのだろう。それでも、マドンナがマドンナであり続ける限り、それが若さと美への強迫観念に見えてしまうほどに、リアルワールドで女はセックスに疲れているのかもしれない。魅力的であるためにやるべきことがあまりに多く、苦しいのかもしれない。だから、マドンナを直視できなくなっている女たちは少なくないのではないか。
マドンナの登場から40年、女性解放の思想はどこに向かっているのだろう。マドンナの今を見つめながら、「女の時代」と言われた80年代から今まで、フェミニズムはずいぶんと大きな遠回りをしてきたのかもしれない、という気持ちにもなってくる。
ちなみに『美とミソジニー』は韓国では2018年に出版されている。美容整形大国の韓国で、若いフェミニストたちが化粧を拒み、短髪にするムーブメント=脱コルセットを大きく後押ししたといわれている。一方、ジェンダーの固定化・本質化を危惧するシーラ・ジェフリーズ氏に対しては、トランスジェンダー活動家らから「読むことすら差別」「売ることすら差別」という抗議もある。そのような極端な抗議がなぜ引き起こされるのかを自ら考える力も、この本は鍛えてくれるだろう。マドンナ以降のフェミニズムが何と闘い、何に負けてきたのかを探る大切な一冊であることに変わりはない。
「美」は決して無垢な価値観ではない。美にひそむ政治、エロス、欲望を丁寧に解き明かすことがフェミニズムの役割でもある。マドンナのインスタグラムを見ながら、私も自分のフェミニズムを振り返る。自分の加齢について考える。マドンナに影響され、ゴルチエに憧れ、ロングブーツと超ミニスカートで力を感じていた80年代の私を振り返りながら。