一方で、保守的な支持層の中には、皇室がSNSといった手段で発信することに抵抗を感じる人もいるだろう。
「そうしたことも含めて、皇室側や宮内庁がSNSを活用するタイミングとしては、眞子さんの結婚問題におけるバッシング騒動が鮮明な時期の方が、国民の理解を得られやすいかもしれませんね」
山下さんは、宮内庁のホームページの開設(1999年)など「電子化への改革期」に秘書課の職員として一連の業務にも携わっていた。
平成の前半は、皇室にとって苦難の連続でもあった。雑誌を中心とした「皇后バッシング」が過熱。93年の誕生日の朝には、美智子さまが倒れて声を失う事態さえ起きた。
かつては「宮内庁、広報せず」の姿勢
山下さんは、「そもそも宮内庁には、広報係が存在しなかった」と話す。
それまでの報道係からより盤石な態勢となる報道室が新設されたのは、平成の皇室が6年目を迎えた1994年。広報係の設置はさらに2年を経た96年であった。
「天皇や皇族方の記者会見を公式に記録するという意識さえなかった。驚いたことに、昭和の時代に行なわれた天皇や皇族方の記者会見は、公式な記録として残っておらず通信社や新聞、テレビ局が記録したものを見るしかないのです」(山下さん)
昔ながらの「宮内庁、広報せず」のスタンスを貫いた結果、招いた皇后バッシングであった。美智子さまの「失声症」は、国会でも宮内庁の広報体制は叱責を受けた。この重い代償を経て、ようやく正確な情報を発信していこうという方針へ舵を切った時期だった。
令和の皇室でSNSによる情報発信が1,2年内に実現されば、ホームページの開設以来、およそ四半世紀ぶりの「改革」となる。これも眞子さんや秋篠宮家への猛烈な批判という痛みを伴った末の改革だ。
宮内庁という保守的な組織が、海外王室のようにフェイスブックやツイッター、インスタグラムへの積極的な姿勢を見せただけに、このニュースは話題を呼んだ。しかし山下さんは、SNSをただ活用しただけでは、見通しは暗いと話す。