感染症との闘いにも、性差がある、根深い差別がそこに横たわっている。そういう歴史を経て思うのは、女の体は「売り物」のようにはできていない、ということだ。「安全な環境で安全な売り方をすれば安全なのだ」という意見もあるが、性産業を合法化した国では、むしろその周辺に脱法的な性産業が増え、性搾取に巻き込まれる女性が増加している。買春という需要を肯定することで、需要はさらに膨らみ、「若い女性」という「商品」がより苛烈に求められていくからだ。また、「性産業と性病を結びつけることで性産業で働く人々をさらに偏見にさらすことになる」という意見もあるが、全く逆の話だ。そこに従事する女性たちが「原因」なのではなく、買春が当たり前の文化、女性の体への理解がなく、人権の意識もなく、生殖に関する知識もなく、「ナマがいい」というような買春男性の意識が問題なのだ。
10月、女性のみを勧誘罪で処罰する売春防止法の抜本的改正を求めた「#女性処罰法改正キャンペーン」がSNS上でたちあがった。女性を処罰せずに、買春者や業者を処罰すべきという北欧型のモデルを求めた運動だ。SNSでは、「性売買女性を処罰する売春防止法を改正し性購買者・業者に処罰を!」などというプラカードを持って、賛同する人々が音楽にあわせてステップを踏んでいる。聞く者に焦燥感を味わわせる多少不穏な音楽からは、もう後には引けない、絶対に変えなければ私たちは殺される、という当事者女性たちの声を背後に聞くことができるだろう。私もこのキャンペーンを見て、今は「買春者」ではなく「性購買者」というのかと、改めて気が付かされた。性売買を「春」と呼んできた側の言葉を使わないことで見えてくるものは大きい。
資本主義社会で買えないものはないとされる。女性の体を利用する生殖技術も含めて、全ては購入可能なサービスである。でもそこで金銭と交換される女性の体の声は、どれだけ聞かれてきただろう。「セックスもお仕事」とそれがまるで「新しい価値」のように語られる前に、「セックスはお仕事」という残酷さを引き受ける側の声を、真摯に聞くべきではないか。