当時の武士の身の振り方に関して、『承久記』には興味深い逸話が見える。幕府の東山道軍の大将だった武田信光と小笠原長清との会話である。無常の世で進路に迷う長清に、信光は「鎌倉方が勝てば鎌倉方につき、京方が勝てば京方につくのが武士の慣習だ」と語った。勝ち馬に乗るという著しく功利的な発想である。

 上皇の挙兵命令を伝える密使として鎌倉へ送り込まれた押松を、幕府は捕縛する。『承久記』によれば、幕府は押松をすぐには解放せず、しばらく鎌倉で拘留し、幕府の大軍勢を見せつけてから帰京させた。兵力が揃っていない段階で帰京させてしまうと、宇津山(駿河国の峠道)から西の武士たちが上皇側に与してしまうことを危惧したからである。武士たちが幕府という勝ち馬に乗るための環境づくりである。帰京した押松から幕府の大軍が上京中との報告を受けた上皇たちは慌てふためくほかなかった。

■乱流する河川の渡河点で攻防が繰り広げられた

 京へ向けて進撃する幕府軍とこれを迎え撃つ上皇軍との全面衝突は、尾張国(愛知県西部)から美濃国(岐阜県南部)にかけての地帯、いわゆる濃尾平野で始まった。この一帯が激戦地となった理由を、交通や地形の観点から考えてみよう。

 東国から京へ向かう三道のうち、東海道と東山道とがこの濃尾平野で合流する。東海・東山両道は北陸道と比べて京までの距離が短く、また、沿道に拠点を持つ武士も多かったから、幕府軍の主要な戦力はこの両道の軍と見て大過ない。

「歴史道 Vol.24」から
「歴史道 Vol.24」から

 東海道は本来、尾張国から伊勢国(三重県)に向かい鈴鹿関を越えて近江国(滋賀県)に入り、京へと至る。しかし、この時の東海道軍は尾張国から美濃国に向かい、東山道軍と合流して不破関を越え近江国に入っている。というのも、鈴鹿峠は難所であり、鎌倉幕府成立期には伊勢は平氏、他方美濃は源氏の勢力圏だったこともあって、鎌倉時代には東海道も伊勢廻りではなく美濃廻りが定着した。

 鎌倉を出た後、海沿いを進む東海道軍と内陸の山間を抜ける東山道軍とは、いずれも濃尾平野という開けた場所に出る。上皇軍は幕府軍の主要戦力がこの平野に出てくるところを待ち受けたのだった。

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