鎌倉幕府の権力闘争を描いたNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」が佳境を迎える。ここでは、鎌倉幕府の滅亡までを特集した週刊朝日ムック「歴史道 Vol.24」から、後鳥羽上皇が武家の頂点に立つ北条義時に対して討伐の兵を挙げた「承久の乱」をひも解く。
* * *
攻勢に出た鎌倉幕府では3軍が組織され、東海道・東山道・北陸道の三つのルートで京へ進軍することとなった。『吾妻鏡』によれば、東海道軍は北条時房・泰時らが率いる十万騎。東山道軍は武田信光・小笠原長清らが率いる五万騎。北陸道軍は北条朝時(義時子)らが率いる四万騎。計十九万騎の大軍勢である。
ただし、中世の戦乱を記録する歴史書や軍記物語は、たとえ叙述に臨場感があろうとも、あくまで後世の編纂物である。そのため、記される兵員数は必ずしも正確でない。それどころか後世になればなるほど史実から乖離し、誇張された数に書き換わっていくことすら珍しくない。
実際、『承久記』は幕府の兵力について、東海道軍は七万騎、東山道軍は五万騎、北陸道軍は七万騎と記す。東山道軍の五万騎は『吾妻鏡』と同じだが、東海・北陸両道については大きく異なっている。三軍を足すと十九万騎という点は両書に共通しているので、幕府軍を総計十九万騎とする認識は広まっていたのだろう。
一方、これを迎え撃つ上皇軍の兵力について『承久記』は、東海道軍を七千騎、東山道軍を五千騎、北陸道軍を七千騎、合計で約一万九千騎としている。一見して明らかなように、これは同じ『承久記』が記す幕府軍の兵力の10分の1となっており、三道の比率も同じである。要するに『承久記』も『吾妻鏡』も、幕府軍と上皇軍との間に戦力の圧倒的な差があることを読者に印象づける叙述となっているわけだが、特に『承久記』については10倍というわかりやすい数字を用いて、落差を表現しているのである。
上皇軍が実際にここまで幕府軍に水をあけられていたかはわからない。京周辺や西国の武士は多くが上皇軍に加わっており、比叡山の僧兵も上皇軍に与している。兵員数はおくとして、確かなのは幕府軍の動員がうまくいったことである。