磯田:松平清康の時代に、かなり安祥松平氏に力が集中し、惣領あるいは西三河の盟主という立場になりかけていたと思うのですが、その清康は若くして殺されてしまいます。
笠谷:いよいよ三河統一に向かうかというときに、清康は殺されています。そしてその後、清康の大叔父にあたる桜井松平の信定が岡崎城を乗っ取ってしまいます。まだ十歳だった家康の父広忠は、諸国放浪の末に、今川氏のバックアップでようやく岡崎に帰還しています。つまり、この段階では松平惣領家の惣領権は確立しておらず、駿河守護家の今川氏にも頭が上がらないという状況だったわけです。したがって、そのあとを継いだ家康にとっては、まず惣領権の確立が重要な課題でした。
磯田:譜代の家臣よりも、一族の存在の方が厄介だったということですね。
笠谷:十八松平と松平惣領家は、緩やかな連合体のような形でしたから、合戦のときも、松平一族が勝手に陣払いをしてしまうこともありました。
磯田:指揮に従わず、形勢不利と見るや勝手に引き上げてしまう。
笠谷:そうです。ほとんど利敵行為と言ってもいい。十八松平とは、そんな存在でした。家康は、その危険な連中を取り込むために、新たな家臣団編制を行い、今までは同輩のようだった同族団や国衆を家臣化したわけです。具体的には、西三河の石川数正を旗頭とし、東三河は酒井忠次を旗頭とすることで、組織的に領国支配をするようになります。この二人は、いわば家康の分身なわけです。そして、それぞれの地域に根を張る同族団や国衆を全部、その傘下に入れてしまった。つまり、家臣にしてしまったわけです。こういった体制は、だいたい永禄年間(1558~70)には完成したと思われます。
(インタビュー構成/安田清人[三猿舎])
※週刊朝日ムック『歴史道 Vol.25 真説!徳川家康伝』から抜粋