2度目はNYの昼間、路上でだ。前から歩いてきた男に突然、頭を殴られた。勢いをつけたパンチではなく、気軽に叩くような感じだったのだが、あまりの激痛にしゃがみこんだ。抗議したら、さらに暴力に遭うかもしれないと怯え、ただうずくまり、痛みにもだえながら「私が何か変なことをしたのか?」と自分の非を考えたりもした。
私は身長が170センチ近くあるので、靴によっては175~180センチで街を歩いている。20代の頃は筋肉質で腕力もあるので男を恐れる気持ちを持ったことがなかった。殴られても殴り返すし!と、思っていたのだ。実際、電車の中でもポルノを見ているオジサン(スポーツ紙を堂々と広げて女の裸を堂々と見てるオジサンが1990年代にはよくいました)が隣に座ったら、「それ、家で読むものじゃないの?」と注意していた。
それが2人の見知らぬ男に殴られた経験は、かなりトラウマになった。男の気軽な暴力は、私には相当なダメージを負うものであり、そして私はあの力で人を殴ることは絶対にできないと思い知った。さらに50代になり自分の筋力が弱くなっているのを実感すると、正直、「男は怖い」としみじみ感じる。正確に言えば怖いのは「男という存在」ではなく、「女への怒りを抑えられない男の感情」だ。
当たり前のことだが女性にも男性にもグラデーションはあり、一概に筋力=男、と言うつもりはない。それでも、怒る男の気軽な暴力は女の体には命取りになることもあるのだ。痴漢にすぐに抗議できないのも、街を歩いていてわざとぶつかってこられた時や、そして同意のない性交の場面でも、強く抗議できないのは何をされるかわからない、という恐怖で身がすくむからだ。体がフリーズする“あの感じ”は、多くの女性が知るものだろう。
20代の私が「そんな新聞、1人の時に読むものでしょ」と注意すると、たいていのオジサンは「え?」と驚いた顔をして新聞を畳んでくれた。女に注意されるなど思いもよらず、ただ虚を突かれた感じの男性たちを今思えば、まだ牧歌的な時代だったということか。今は、女性への憎しみや怒りが、男たちのゲームのような娯楽になっている。「男を怒らせたら面倒だ、怖い」という形の支配は、以前よりもずっと深く残酷になっているのではないか。