――その後はどういう対応に?

菊池 私の担当さんは、「他の回も見直す必要があるんじゃないか」と。幸せな信仰を続けている2世の話も取り上げましょうとか、宗教には問題はないけれど、周囲の偏見がつらかった話に変えましょう、とか。でも、それではお話ししてくださった2世の方々が伝えたかったことと全く違いますから「そんなふうに描きかえなくてはならないなら、連載を終わらせてください」と私から言いました。

――菊池さんの作品への抗議もそうですが、旧統一教会問題でも宗教2世が記者会見を開くたびに「信者の感情を傷つけた」と、教団は主張してきました。しかし、宗教に関する悩みを抱える信者(宗教2世)の存在は当たり前のことであり、その声を上げることに対して、教団が抗議するのは見当はずれだと感じます。

荻上 被害を受けた宗教2世が声を上げることで傷つく方は当然いるでしょう。特定の企業や省庁でハラスメントがあったことを告発したときに、声を上げた当事者に対して、「あなたのせいで評判が傷つく」という攻撃が行われることはこれまでも見てきました。しかし、宗教的虐待の被害者が声を上げることには二つの正当性があります。
 一つは、被害体験そのものを認めることや、言語化することは、それぞれの回復や健康のために、そして権利回復のためにも重要だということです。もう一つは「気づきを与えるための正当性」です。例えば、ハラスメントをした人に対して「あなたがやっていることはハラスメントです」と言うと、加害者側も「傷つき」はします。しかし、それは相手の痛みへの気づきを得るために不可欠です。また、被害を受けた宗教2世の発言を封じ込めてしまえば、教団は自らの改善の機会を失ってしまう。

菊池 まったく、そのとおりです。教団は「そんなふうに感じている信者がいるとは知りませんでした」と言って、自分たちの体制を変えていくきっかけとして使えばいいのに、実際は「問題などありません」って言う。「信者の感情を傷つけた」という言葉を、問題を隠蔽する道具として使っている。そこがおかしいんですよね。多分、心ある宗教団体は、ちょっと改善しなきゃって思うんじゃないですかね。

荻上 教団という非常に大きな権威に対して個人が告発している、親に対して子どもが抵抗しているという状況に対して、「他の信者が傷つく」「社会から教団が叩かれている」として自己保身を図ることは考えられます。問題はその告発などの妥当性であり、「傷つくかどうか」だけで止まっていい問題ではありません。

(構成/AERA dot.編集部・米倉昭仁)

後編に続く。