徳川家康は、関白秀吉に「私は殿下のように名物の茶器や名刀は持たないが、命を賭して仕えてくれる五百ほどの家臣が宝」と、控えめに誇ったという。週刊朝日ムック『歴史道 Vol.25 真説!徳川家康伝』では、徳川家を支えた忠臣、猛将、智将などを、歴史学者の小和田泰経氏が採点。各武将の生き様と能力を解説している。今回は、家康の牙、爪として、時に盾として合戦で力を発揮した「猛将」をピックアップした。1位となったのは――。
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豊臣家臣団に比べると、地味なイメージは否めないが、家康の元にも猛将と呼べる人材が何人もいた。九州平定戦と朝鮮出兵に派兵していないから目立たないだけで、徳川四天王などは、加藤清正や福島正則に比肩しうる豪の者だった。
猛将の定義は難しいが、仮に圧倒的な突破力と破壊力を持ち、戦の流れを一人で変えられる将、もっとも危険な殿の役柄を何度もやり切った将を言うなら、徳川四天王だけでなく、徳川十六神将もみな該当するだろう。
家康にしてみれば、忠誠心の厚い者はできるだけ旗本か留守居とし、死傷率の高いところに配備したくはない。
勢力が拡大するとともに、三河譜代の勇将を第一線に配置する機会が減ったのはそのためで、危険度の高い場所には新参者を充てるのをよしとした。手柄を立てる機会を与えながら、忠誠心と実力を測ることもできたからだ。譜代の猛将は不利な状況に立たされるか戦況が膠着した場合に備えて温存する。生身の人間を駒として使う以上、それも立派な戦術だった。
元亀元年(1570) の姉川の戦い時はまだ三河譜代頼みで、織田・徳川連合軍はやや押され気味だった。しかし、浅井・朝倉連合軍の陣形が伸びきっているのを見て取った家康が榊原康政に側面からの攻撃を命令。この突撃が成功してからは一方的な展開となった。
このような役目は誰にでも託せるものではなく、武勇のほどはもちろん、裏切りの心配もない者である必要があった。
どんな猛将も年齢には勝てないが、その点で徳川軍団は世代交替もうまく運び、何とか天下統一まで人材不足に頭を抱えることはなかった。跡継ぎが力不足の家があっても、新参者でカバーできた。