石田三成の挙兵を聞くと家康に与し、関ヶ原の戦いでは毛利陣営の調略を担当。小早川秀秋の家老の一人、平岡頼勝と姻戚関係にあったことから、頼勝を通じて同じく家老の稲葉正成、さらには秀秋本人からも寝返りの承諾を得るなど、大きな貢献を果した。
関ヶ原の戦い当日は竹中重門とともに魚鱗の陣の右端を受け持ち、笹尾山に陣を張る石田三成の本隊に戦いを挑んだ。
同じ頃、豊前国中津城で留守を任されていた如水も独自に兵を集め、東軍側に加勢し、大友義統ら西軍側の諸大名相手に勝利を重ねた。
父子揃っての活躍の恩賞として長政は筑前国名島へ移封。16万石から52万石へと加増された。
※外様大名の定義として、ここでは関ヶ原の戦い前後から徳川に臣従した諸侯とする。
※週刊朝日ムック『歴史道 Vol.25 真説!徳川家康伝』から抜粋