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 豊臣政権下では同僚であり、ライバルでもあった外様大名たち。彼らから家康党を選別し、配下として活用することは、関ヶ原での勝利、そしてその後の幕藩体制の確立には必須だった。週刊朝日ムック『歴史道 Vol.25 真説!徳川家康伝』では、そんな外様大名を「武力」「知力」「信頼度」などの指標で歴史学者の小和田泰経氏が採点。最も有益な外様の武将は誰だ?

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 豊臣秀吉亡き後にはもはや単独で自分に勝る大名はいないと自覚していた家康だったが、秀吉が残した体制は瞬時にひっくり返せるものではなく、下準備も兼ねて、天下を取るにはまだ多少の時間が必要だった。

 五大老・五奉行のなかで、唯一警戒すべきは前田利家。その利家も隠居し、ほどなく病死。家康は試しに、秀吉が禁止した、五奉行の許可なき大名間の婚姻を進めたが、五奉行は厳重注意をする以上のことはできなかった。

 石田三成は執拗に立ち向かってくるが、すでに豊臣恩顧の大名が二つに割れ、一方は三成を毛嫌いしている状況では、さしたる脅威でもなかった。

 織田家旧臣では細川忠興、池田輝政、山内一豊、豊臣恩顧の大名では黒田長政、加藤清正、加藤嘉明らが懐柔済み。さらに伊達政宗、前田利長らと婚姻関係を結ぶなど、家康の関係作りは、あらゆる手段を通じて行われた。

 福島正則らが土壇場で西軍に寝返る不安はあり、それを見極めるため、家康は江戸からなかなか西上せず、正則らを挑発して、彼らが岐阜城を陥落させたと聞いてようやく腰を挙げた。

 家康はとことん慎重な人間だった。

 このように家康が天下を取るためには外様大名の力が必要だったが、天下を手中にしてからは、切るべき大名と残すべき大名を冷徹に見極め、切るべき大名には手段を選ばず、無理にでも改易の口実を作り出した。家康がある時は頼り、またある時は恐れた、実力派の外様大名とは?

1位 黒田長政 / 三成への憎悪から、寝返り工作にも従事

 豊臣秀吉の軍師を務めた黒田如水の嫡子。その有能な遺伝子を引継いだ黒田長政が、96点という高得点で外様大名の第1位に選ばれた。

 朝鮮出兵の最中に石田三成と不仲になり、帰国後は最初の正室を離縁して家康の養女を継室に迎えるなど、家康との距離を急速に縮めた。

 三成を憎悪する余り、福島正則や加藤清正ら七将で、襲撃しようとしたこともある。

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16万石から52万石に…