トレードを通告されながら、引退覚悟で断固拒否したのが、前出の中日・藤波だ。

 76年オフ、名二塁手・高木守道の後継者としてクラウン・基満男獲得に動いた中日は、藤波と投手の竹田(前出)を交換要員に2対1の交換トレードをまとめた。

 ところが、静岡出身で中日に愛着を持つ藤波は「パ・リーグには行きたくない。どうしても行けと言われたら、僕は引退します」と涙を流して抵抗した。

 新人王を獲得した選手をわずか3年で放出することにファンも猛反発。球団事務所には1万通を超えるトレード反対の署名や投書が山をなした。

 膠着状態が続くなか、12月中旬、米国のウインターミーティングから帰国した両球団の代表が再度話し合った結果、トレードは「下交渉の段階の不一致」(中日・小山武夫オーナー)として白紙撤回され、竹田と投手の松林茂の1対1トレードに変更された。

 希望が叶い、残留が決まった藤波は「好きな中日で来年もやれるんですから、最初から出直すつもりでやります」と意気込みを語ったが、「何らかのペナルティはあるでしょう。それは覚悟しています」の言葉どおり、春季キャンプの自費参加、公式戦第3節まで出場停止、背番号「3」から「40」に変更などのペナルティを科せられている。

 監督がトレードに積極的だったのに、球団トップが反対し、二転三転の迷走劇になったのが、78年オフのヤクルトだ。

 同年、球団創設後初のリーグ優勝と日本一を達成した広岡達朗監督はV2を目標に、活発なトレードで“守りの野球”のさらなる徹底を図った。

 まず守備に難のある主砲・マニエルと左腕・安田猛と、近鉄の井本隆、神部年男両投手との交換トレードを進めた。安田は同年15勝を挙げていたが、両膝の故障が慢性化し、夏場の一貫しない起用法に不満を漏らしたことなどから、「今が売りどき」と判断したようだ。

 だが、安田が「出されるならユニホームを脱ぐ」と松園尚巳オーナーに直訴すると、「君は絶対出さない」と残留を確約される。もともと松園オーナーは「私はトレードが嫌いだ」と公言しており、「V2を目指すには、温情を捨てて新しい血を導入しなければ」の“広岡流”を理解しつつも、主力の放出には消極的だった。

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「ヤクルトを離れたくない」