批評家の東浩紀さんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、批評的視点からアプローチします。
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新型コロナウイルスが猛威を振るっている。中国本土の感染者増加は鈍りつつあるが、流行は日本と韓国に飛び火した。本稿執筆時点(2月26日)で日本の感染者は877人、韓国では1千人を超えている。
日本では長いあいだクルーズ船が話題の中心だったが、2月の最終週に入って状況が急展開した。市中感染が拡大しているとして、25日には厚生労働省が緊急の声明を出し、翌26日には北海道が全公立小中学校の休校を決定、政府も国内イベントの開催自粛を要請した。すでに国立博物館などの2週間休館が発表されているが、本稿が活字化されるころには中止や自粛がさらに広がっているだろう。上海や北京のような、人気のない街路が日本でも現れるかもしれない。
それにしても、この騒動を見て感じるのはグローバル情報化社会の意外な脆(もろ)さである。新型ウイルスは感染力は高いが致死率は低い。感染しても8割は無症状か軽症だといわれる。死者数は2700人強で、多いといえば多いが、季節性インフルエンザが原因で死亡する数(超過死亡数)と比べるとかなり小さい。
にもかかわらず、新型ウイルスはじつに大きなインパクトを世界に与えている。グローバル化で封じ込めが機能しないだけではない。SNSを介して恐怖やデマが急速に広がり、人々を世界中で不安に陥れている。中国人差別も現れている。治療法がないのだから警戒するのは当然だが、ヘイトとの混同は許されないし、無思慮な行動は事態を悪化させるだけである。武漢では都市封鎖で市民が不安になり病院に殺到し、むしろ感染が広がったといわれている。日本でも希望者の全員検査を求める声があるが、自制を失わないようにしたい。たとえ検査で陽性が出ても、特効薬があるわけではないのだ。
流行収束後のことも考えねばならない。心配なのは東京五輪中止が囁(ささや)かれていることだ。経済的損失が巨大なだけではない。震災からの復興をアピールするはずだった五輪がそもそも開催されない、その虚(むな)しさに日本人は耐えられるだろうか。虚無感が変な政治勢力の伸長につながらないよう、警戒したい。
※AERA 2020年3月9日号