政治学者の姜尚中さんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、政治学的視点からアプローチします。
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平成の終わりから令和にかけて何が一番問われたのか。それは沈み込んで行く国のあり方でした。閉塞感が社会の澱んだ空気となり、ラグビーW杯という想定外の効果をもたらしたイベントがなければ、落ち込みはもっと激しかったかもしれません。改元という心機一転の勢いと東京オリンピックという巨大イベントへの期待感が明るい材料だったと考えても、日本社会が相対的に収縮しつつあるという感覚は一掃されるわけではありません。
今年は、先延ばしにされた問題がいろんな場所で出てきそうです。翻ってみれば、日本は公害大国であり、同時に唯一の被爆国であるにもかかわらず、地球温暖化などの環境問題や核廃絶を含む非核化の問題などで世界をリードする役割を果たしてきたとは言えません。そのことは、昨年のCOP25において地球温暖化への具体策が示せなかったことや、核兵器の禁止を訴えるローマ教皇フランシスコの期待に応える施策を示せなかったことでも明らかです。同時に、女性やジェンダー、子育てやLGBTなどが政治の最も重要な課題として浮上しているにも関わらず、これに対するセンサーがうまく働いていない現実も明らかになりました。これらの問題は、経済的な効率性や生産性とは直接結びつきません。生産性と効率性は極めて重要ですが、同時にそれとは違う価値が実現されていないと先進国とは言えないということに日本は早く気づかなければなりません。
令和2年のテーマを改めて考えてみると「社会の中の価値の相克」ではないかと思います。価値をめぐって分断線が走り、排斥や嫌悪だけが顕著になれば、社会の融和や連帯はますます失われます。そうした分断に嫌気がさせば、フツーの人々はこれまで以上に政治に背を向けるでしょう。今の日本は、それらに対するセンサーが動いているとはいえません。もちろん国会対策は重要ですが、国会的なこと=政治と理解している限り、なぜグレタさんのような少女が世界で脚光を浴びるのか理解できないでしょう。与野党を問わず、価値の相克の時期に来ていて自分たちは旧時代の人間かもしれない、ということをせめて気づいてほしいと思っています。
※AERA 2020年1月13日号