普仏戦争(1870~1871年)前には陸軍に入隊するが、幸か不幸か落馬事故を起こして除隊し、24歳にしてスイス・バーゼル大学の教授職を得た。彼の講義は甚だ難解で学生からの評判は悪かったが、近くに住む31歳年長の大作曲家リヒャルト・ワーグナーに心酔してたびたび訪問し、共に「宗教的共同体に基づき、美的かつ政治的に高度な達成をなした理想的世界であるギリシャ」を目指す。だが、国王や貴族など世俗権力に媚びる(と彼は考えた)ワーグナーとは決別する。
■頭痛に苦しみながら『ツァラトゥストラは~』
1878年に『人間的な、あまりにも人間的な』を出版。このころから慢性の頭痛に苦しめられて大学を退職。在野の哲学者として、病気療養のために夏は気候のよいスイス・サンモリッツ近郊の村に、冬はイタリアのジェノヴァやトリノ、あるいはフランスのニースといった地中海都市で過ごした。このころ、ロシア生まれの女流作家ルー・サロメと付き合い、結婚を申し込むが振られてしまう。
1883~1885年には代表作『ツァラトゥストラはかく語りき』を書き上げるが、頭痛や不随意運動などの神経症状に苦しめられる。それでも44歳の誕生日(1888年)に、自伝『この人を見よ』の執筆を開始したが、「私の言葉を聞きたまえ! 私はここに書かれているがごとき人間なのだから。そして何より、私を他の誰かと間違えてはならない」、各章題には「なぜ私はかくも素晴らしい本を書くのか」「なぜ私は一つの運命であるのか」といった誇大妄想的な表現が目立つようになる。1889年、ニーチェはトリノの往来で騒動を引き起し、警官に拘束された。拘置所から、ワーグナー夫人や歴史家ブルクハルトに「私が人間であるというのは偏見である。…私はインドに居たころは仏陀であり、ギリシャではディオニュソスだった。…アレクサンダー大王とカエサルは私の化身であり、ヴォルテールとナポレオンだったこともある。リヒャルト・ヴァーグナーだったことも十字架にかけられたこともある」という手紙を送った。
友人たちは彼をバーゼルの精神科病院に連れて行き、残る生涯をそこで過ごすことになる。診断は「進行性麻痺」、つまり脳梅毒だった。