■病名の由来は「ヤマモモ」から

 梅毒は、性的な接触などによってうつる細菌感染症である。原因はTreponema pallidum(梅毒トレポネーマ)という菌で、病名は症状にみられる赤い発疹が「ヤマモモ」に似ていることに由来する。

 感染局所や全身に発疹ができるだけでなく放置すると、中枢神経系や血管が炎症を起こし、死に至ることがある。また、妊婦が感染すると死産や重篤な胎児の障がいをきたすこともある。ニーチェの場合、バーゼルの精神科病院の記録ではアーガイルロバートソン徴候という、左右瞳孔径の違いなどさまざまな神経症状があった。加えて精神錯乱をきたして55歳で亡くなっている。

 ただ、当時は血清学的診断やDNA診断はなく、死後の解剖もなされなかったので脳腫瘍や脳の変性疾患の可能性も否定はできないが、19世紀当時のヨーロッパの流行状況から梅毒だった可能性は高いと思われる。

■梅毒遺伝子の変化

 1492年のコロンブスの新大陸発見まで、梅毒はヨーロッパにはなかった。実際、遺伝子解析で現在の梅毒が15世紀末にさかのぼることが証明されている。16世紀以降、免疫のなかったヨーロッパでは、梅毒が猖獗(しょうけつ)を極め、王侯貴族から庶民まで多くの人が梅毒に罹患している。20世紀、ペニシリン出現で治療できる病気になったが、現在でも検査や治療が遅れたり放置したりすると、脳や心臓に重大な合併症を引き起こすことがある。

 何より大事なことは、21世紀の日本で梅毒が急増していることで、10年前までは年間1000人以下だった新規患者数が、現在では7~8000人と激増している。一方、性感染症として皆が恐れるエイズは、予防内服や早期の治療で年間の新規患者は1000人以下に減少してきた。グローバル化やSNSによるパートナーの出会い、経口避妊薬の普及など社会的要因に加えて、10年前に比べ、梅毒の遺伝子自体が変化してマクロライド系などよく使われる抗菌薬に耐性になっているのも流行の一因であろう。梅毒は過去の病気ではないのである。(文/早川 智)

◯早川 智(はやかわ・さとし)/1958年生まれ。日本大学医学部病態病理学系微生物学分野教授。医師。日本大学医学部卒。87年同大学院医学研究科修了。米City of Hope研究所、国立感染症研究所エイズ研究センター客員研究員などを経て、2007年から現職。著書に『戦国武将を診る』(朝日新聞出版)など

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