同志社大学生命医科学部教授の野口範子さんは、生命科学者として体の中の活性酸素の研究を続けつつ、「サイエンスコミュニケーター養成副専攻(SC副専攻)」を2016年にスタートさせた。「理系の学生にコミュニケーションのノウハウを教えるのではなく、理系と文系の学生が一緒に社会における科学の問題を議論する場を作りたかった」。周囲の理解が乏しくてもやり抜くことができたのは、子育てと研究の両立に苦闘する中で、持って生まれた胆力がさらにパワーアップされたからなのかもしれない。(聞き手・構成/科学ジャーナリスト・高橋真理子)
【写真】笑い声が聞こえてきそう!幼い娘2人とのスリーショット
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――筑波大学の博士課程2年のときに1人目を産んだんですね。
妊娠中に夫は東京に異動して、私は一人で茨城県つくば市のアパートにいた。実家の母に来てもらった次の日に陣痛が来て、夫はいないので私が運転して病院に行きました。京都の母には3カ月いてもらって、約束通り娘を(義父母が住む神奈川県横須賀市の)久里浜に預けにいきました。
「よろしくお願いします」と義母に娘を預けて、私はつくば市に帰った。母乳がよく出たので、毎日乳搾りをして法医学教室の冷凍庫に入れて、週末になるとそれをアイスボックスに入れて車で東京に寄り、そこから夫が運転して久里浜に行って、1泊して帰ってくる、という生活でした。
――娘さんはずっと久里浜に?
えーと、2歳8カ月までそうでした。義母はものすごく娘をかわいがってくれた。
博士3年の夏に次の妊娠がわかりました。そのころは長女を義母に取られたように感じてしまって、ホント勝手ですよ、私が預けてお世話になっているんですけど、なんか返してくれない雰囲気の中、せっかく2人目に恵まれたんだから今度はもっと一緒の時間を過ごそうと決心した。
翌年4月に次女が生まれ、今度は6カ月京都の母にいてもらって、その後は保育ママさんにお世話になりました。週末に次女を助手席に乗せて東京を経由して久里浜へ行き、帰りも次女だけ連れ帰る生活になりました。長女は何を思っていたのか、覚えていないでしょうけど、その頃のことを思うと胸が痛みます。医学系って博士課程が4年なんですが、農薬の毒性発現機序の研究をして4年で無事に博士号を取れました。