助川さんがその筆頭に挙げる作品が、短編「午後の最後の芝生」(『中国行きのスロウ・ボート』所収)だ。主人公の「僕」は芝刈りのアルバイトで訪れた女性の家で、女性の娘らしき少女の部屋を見る。そこに少女はいないが、ノートや辞書、化粧品、クローゼットの洋服から彼女の存在を色濃く感じる。
「彼女の母親が『どんな子だと思う?』と問い、“僕”は服や持ち物を見て、いなくなった少女の気配を感じる。作中で彼女がどうなったのかに言及はありませんが、じんわりとした喪失感が広がります。読者が抱いている寂しさに近く、共感を覚えます」(同)
前出のナカムラさんも、春樹作品に癒やされる理由に「共感」を挙げる。
「多くの作品に共通するのは、普通の孤独な“僕”が、能動的ではなく仕方なしにどこかへ行って、戻ってくるという構図です。“僕”は強くもなく、特殊な能力を持っているわけでもない。そこに読者は自己投影できるのです」
ナカムラさんによると、海外のファンも含めて「春樹は自分の心情を代弁してくれている」と話す人が多いという。
「強いラスボスを倒して平和を取り戻すような壮大な物語も楽しいですが、そこに共感はありません。いたって普通で孤独な“僕”に共感し、・僕・を通して孤独感が解消されるんだと思います」(ナカムラさん)
ナカムラさんのおすすめは『羊をめぐる冒険』だ。
「落ち込んでいるときの心情にも通ずる“喪失の痛み”と、緩やかな回復を味わえる典型的な物語です。主人公はやむを得ず冒険に出て、あらゆるものを失いながら最後は答えらしきものを見つけますが、外の世界の巨大な壁と対峙しているわけではありません。閉じた世界のなかで完結している文学なんです。弱い主人公に自分を投影すると、一人じゃないんだと勇気づけられます」(同)
落ち込んでいる人に「元気になれ」と言うのは逆効果だと、聞いたことがあるかもしれない。弱さにとことん寄り添うと、励ますよりむしろ、落ち込んだ気分を改善させることにつながる。