気分が落ち込んだ時、村上春樹作品を読むと癒やされる。書かれているのは決してスッキリ晴れやかな物語じゃない。 悩み、苦しみ、喪失感を抱く。そこに「近さ」を感じる。
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都内に住む会社員女性(31)は気分が落ち込んだとき、村上春樹作品に手を伸ばす。
「お気に入りは『ノルウェイの森』と『羊をめぐる冒険』です。明るくハッピーな気分になるわけでもないし、励まされるのとも違う。鬱々とした人ばかり出てくるけれど、なぜかそれが心地いいんです」
難解な物語、鬱々とした精神状態、親しい人の死や別れ……。春樹作品の持つイメージは、「癒やし」とは対極にある。それなのに、「春樹を読むと癒やされる」と感じる人は多い。春樹ファンが集まることで知られるブックカフェ「6次元」店主でアートディレクターのナカムラクニオさんは言う。
「春樹作品の読書会をやると十人十色の感想が出てきますが、“癒やされた”と話す人は多い。頻出ワードですね」
なぜなのだろう。日本文学者で、岐阜女子大学文化創造学部教授の助川幸逸郎さんは、春樹作品の持つ癒やしの力をこう分析する。
「落ち込んでいるときに春樹作品を読むと心地よく感じるのは、彼の作品の多くが“ポスト・フェスティウム”を美しく表現しているからです」
精神医学の大家で京都大学名誉教授の木村敏(びん)さんは、人間の精神状態を「アンテ・フェスティウム(祭りの前)」「イントラ・フェスティウム(祭りの最中)」「ポスト・フェスティウム(祭りの後)」の三つに分類した。うつ状態のような気分の落ち込みは、このうちの「ポスト・フェスティウム」にあたるという。
「祭りの後のような精神状態、つまり、青春時代など自分の輝かしい時代が終わってしまったと感じるのがこれです。特に初期の春樹作品は、このポスト・フェスティウム的な精神状態が叙情的に書き込まれている。気分が落ち込んでいるとき、自分の心の状態に近い物語や文章にホッとするんです」(助川さん)