被災した人たちに、ひざまずいて労りの言葉をかける天皇と皇后。平成の皇室を象徴するこのスタイルはどのようにして誕生したのか。放送大学教授の原武史さんが解説する。
【写真】美智子妃とともに子どもたちにしゃがんで語りかける皇太子さま(当時)/1968年5月8日撮影
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東京都福生(ふっさ)市の田村酒造場に、「天皇陛下皇后陛下行幸啓御所」と刻まれた石碑がある。行幸啓とは天皇と皇后が一緒に外出することで、2016(平成28)年4月12日に天皇と皇后が訪れたことを記念して建てられたものだ。この年だけで、福生市以外に宮城県女川町、長野県中野市、山形県鶴岡市、茨城県結城市、愛知県犬山市、長野県飯田市に行幸啓記念碑が建てられた。
昭和初期には、明治天皇が全国各地を回った巡幸の途上で宿泊、休憩した場所が「聖蹟」に指定された。けれども天皇明仁と皇后美智子は、皇太子(妃)時代を含めると、全都道府県を少なくとも3回訪れている。これまで二人が訪れた地に建てられた記念碑の数は、おそらく明治天皇の「聖蹟」が刻まれた記念碑の数を上回るだろう。
16年8月8日に発表された「象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば」には、次の一節がある。
「私はこれまで天皇の務めとして、何よりもまず国民の安寧と幸せを祈ることを大切に考えて来ましたが、同時に事にあたっては、時として人々の傍らに立ち、その声に耳を傾け、思いに寄り添うことも大切なことと考えて来ました」
ここで天皇明仁は、象徴天皇の務めとして「国民の安寧と幸せを祈ること」と「人々の傍らに立ち、その声に耳を傾け、思いに寄り添うこと」を挙げている。前者は宮中祭祀を、後者は行幸を指している。
どちらも、天皇の権力が大きくなる明治になって新たに作られたり、大々的に復活したりしたものだ。もちろん戦後になると憲法が改正され、天皇は象徴となったが、明治、大正、昭和、平成4代の天皇のうち、宮中祭祀と行幸を最も熱心に行ってきたのは天皇明仁にほかならない。
とりわけ、「おことば」で天皇が多くの言葉を費やしたのが行幸である。それは「日本の各地、とりわけ遠隔の地や島々への旅」「皇太子の時代も含め、これまで私が皇后と共に行って来たほぼ全国に及ぶ旅」という具合に、表現を変えながら言及を繰り返したことからも明らかだろう。