この上司が、執拗に佐藤にセクハラを仕掛けてきた。派遣の身で断れば簡単に契約を打ち切られる。それでは家族が路頭に迷う。必死で要求をかわすうち、ストレスから心身に重い不調をきたして働けなくなり、生活苦に陥った。「派遣会社から借りた資材」である派遣に、労働権を主張する手立てはほとんどなかった。佐藤の労災認定要求は、そんな崖っぷちから始まった。
冒頭の男性や佐藤を襲った「格差」の時代は、同時に富裕な若者も生んだ。華々しく登場し、「ホリエモン」と呼ばれる堀江貴文は、佐藤の5歳下、男性の4歳上だ。非正規化が進み、フルに働いても生活できない「ワーキングプア」が増える一方、株などの資産の値上がり益をテコに一気に富を獲得していく人々がいる。そんな変化を背景に展開されたのが、「格差論争」だ。
まず、京都大学教授だった橘木俊詔が98年の著書『日本の経済格差』で、格差の度合いを表すジニ係数の変化から「一億総中流社会」が崩れていると論じた。これに対し、大阪大学教授の大竹文雄は、高齢化や単身者世帯が増えたことによる見かけの現象と主張し、論議は平行線をたどった。
だが、現場の実感は、数字にもとづく「格差否定論」を乗り越え始めていた。小泉内閣の「聖域なき構造改革」で、税や社会保険の負担増が急ピッチで進められていたからだ。
冒頭の男性は、「消費税5%より、自分にとっては社会保険料などの増加による負担増で少ない手取りがさらに落ち込んだあの時期の記憶の方が鮮明だ」と回想している。
06年2月には朝日新聞が連載「分裂にっぽん」を始め、7月にはNHKが「ワーキングプア」についての特集番組を放映した。12月には「格差社会」が流行語大賞でトップテン入りし、民主党(当時)など野党が「格差是正」を訴え、「格差」は政治の争点となっていった。
やがて、08年9月のリーマン・ショックを機に大量の派遣社員の契約打ち切りが起きる。「派遣切り」だ。この年の暮れ、失業者の救援のため、労組や反貧困NGOが、ホームレス支援に携わってきた湯浅誠(現東京大学先端科学技術研究センター特任教授)を「村長」として「年越し派遣村」を日比谷公園に開設し、その動きがマスメディアで連日報じられた。