●完全失業率を下げるには、「雇用の質」より「雇用の数」
日本社会は、米国の内需拡大要求の結果を「日本の勝利」と受け止め、「世界一」に酔った。その水面下では、80年代以降の急速な円高によって企業の海外脱出が進んでいた。柱になる国内産業は衰退をたどり、「生活できる」質のいい仕事は減りつつあった。
だが、規制緩和や新自由主義が「世界一」をもたらしたという空気は、その後のバブルの崩壊と経済危機を労働の規制緩和で乗り切ろうとする動きへと日本社会をいざなっていく。
まず95年、経営者団体、日経連(その後経団連と統合)が「新時代の日本的経営」を発表し、日本的経営を正社員原則から非正社員の活用へと転換させるよう推奨した。
続く97年の山一證券の破綻と大手企業の倒産の続発の中で、正社員を含めた大規模なリストラが進行した。「終身雇用」に象徴される「日本的経営」への自信は揺らいだ。
小泉内閣が誕生した01年、完全失業率は戦後初の5%台を記録し、これを下げるには「雇用の質」より「雇用の数」だという考え方が勢いを増していった。「数」を求め、不安定な働き方として一部業務に限定されていた派遣労働が99年、原則、全業務解禁へと転換した。04年には、危険度が高い工場での製造業派遣も解禁された。
15年、セクハラは労災であると初めて国に認めさせたことで知られる佐藤かおり(51)は、今年2月に出した著書『セクハラ・サバイバル~わたしは一人じゃなかった』で、派遣が規制緩和された時期の変化を振り返っている。
●派遣社員の労働権を主張する手立てがなかった
佐藤は01年、父の死後、家族を支えるため大手通信社で派遣社員として働き始めた。職場では、8割を占める正社員が、2割の派遣社員たちに丁寧に仕事を教えてくれた。そんな和気あいあいの職場は、その比率が逆転するにつれ激変した。正社員が減り、派遣社員の佐藤が新人の派遣社員に仕事を教えることになった。加えて、繁忙期に来る臨時社員の研修まで担当させられた。仕事の負担に見合った待遇改善を派遣会社に求めると、派遣先の上司が「カネのことを言う女は嫌いだ」と封じにかかった。