お笑い芸人のマキタスポーツさんによる「AERA」の連載「おぢ産おぢ消」。俳優やミュージシャンなどマルチな才能を発揮するマキタスポーツさんが、“おじさん視点”で世の中の物事を語ります。
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「味覚」というものを賢明なるアエラ読者はどう考えているのだろう。
新概念として「味覚のイコライザー」というものを提唱したい。イコライザー(equalizer)とは、一般的には音声信号の周波数特性を変更する音響機器のことをいう。
というと、なんだかわかりづらいが、我々世代に向けて極めて大ざっぱに言えば、昔のステレオコンポに付いていたやけにつまみの多い部位を想像されたい。低音と高音だけじゃなく、中音域を調整して自分好みの音像を演出できるあれだ。
私が伝えたいのは、ここまで聴覚に関する科学が数値化され、メカ的な物となり、”耳で感じる味”(耳の調味料)がここまで現出しているのに対し、味覚に関してはそういうものがないということ。考えてみれば当たり前なのかもしれないが、わざわざ”外”に出して“見る”ことをしないでも「味覚」は自分の内側にあって認識すれば事足りるからなのだが、「美味しさ」が可視化しないことで、その主観が聖域化、まるで迷信になっているのが問題なのだ。
例えば、人は割と簡単に「不味い」と言う。そこでは”何がどう不味いのか”が検討されない。全て「私の思う不味い」に帰結する。「美味しい」を広めにとっている人もいれば、狭くとっている人もいる。狭くとっている人は自分の感覚こそが正義だし、広めにとっている人もいかに食べ歩いたかを根拠にしているケースが多く、それも大事かもしれないが作り手に寄り添って技術面での解釈をしている人は少ないと思う。
私的に言えば、これだけサービスが多様化し、過当競争が当たり前になった世の中で、外食に減点ポイントを探すことは困難だと思っている。向こうは味の均質化を極めているし、先の例えで言えば、音の波形ならぬ「味覚形」をイコライジングしている。甘味、苦味、塩味、酸味、旨味の五基本味のパラメーターは誰にも嫌われない最大公約数的なのだ。で、これを知っているのが専門家である料理人なのだが、皆そこにだけ責任を擦りつけている様に思えてならない。金を取るのだからプロはそういう誹(そし)りを受けるのも当然だとも思う、だが、一つの観点として、私の言う「味覚のイコライジング」を味わう方法も身につけてみてほしいのである。