ムンクはのちに、当時を思い返して、そう語ったという。“黒い天使”たちは、たしかに彼にまとわりつき、生涯に暗い影を落としたが、画家としてのムンクの成功には、なくてはならない存在とも考えられている。
美術史をたどってみても、ムンクが活躍した1900年前後は、変化の大きなうねりが押し寄せた時期だった。当時の「名画」のお作法を打ち破る、まったく新しいアーティストの一派が台頭してきたのだ。今では多くの人が、西洋絵画のクラシックと考える「印象派」だ。
彼らは、遠近法など、それまでの絵画のテクニックよりも、自身が見たままの光景を大切にして、キャンバスに描いた。例えばなめらかな池の水が、その印象から、大ざっぱな点の集合体として描かれることもあった。前衛的と受け取られた印象派は、旧勢力の激しい批判にさらされたことも知られている。
一方、印象派の登場後に画家となったムンクも、それまでの美術の作法を変えようとしたのは彼らと同じ。ただし大きく違うのは、絵の中に“黒い天使”たちが運んでくる不安や葛藤、愛や苦悩といった心のうちを積極的に描こうとしたところだ。
心の中の表現は、今ではごく当たり前の作品のテーマだが、宗教や歴史、風景などがメインのモチーフだった当時の美術では、かなりの思い切った挑戦になった。幸か不幸か“黒い天使”たちも、画家となったムンクに絶えず波乱を運んだ。
その種となったのが、女性たちだ。イケメンでインテリ、ちょっと陰を持ったムンクは、かなりモテたと言われる。ところが彼が引きつけられる相手は、「接吻」を描かせたとされる人妻や、30歳以上年の離れた少女など、「危険」な相手ばかり。
とくに、オスロの豪商の娘だったトゥラ・ラーセンは、瀕死の床にあるとウソをついてムンクを呼び出し結婚を迫るが、結局は口論となり、ピストルが暴発。ムンクは左手の中指を負傷してしまう。病弱で、あまり社交的でない幼少期を過ごしたムンクは、そうして数々の恋愛をこじらせて、80歳で亡くなるまでとうとう独身を通している。