経済学者で同志社大学大学院教授の浜矩子さんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、経済学的視点で切り込みます。
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イギリスがブレグジット、すなわちEU離脱を巡っててんやわんや状態になっている。EU側とはひとまず何とか離脱交渉がまとまり、膨大な合意文書が出来上がった。だが、この文書がイギリス議会を通る見通しは全く立っていない。交渉の
矢面に立ったテリーザ・メイ首相に対しては、与党内から不信任の声が上がった。
信任投票は辛うじて信任多数でしのいだ。だが、今後の成り行きはなお予断を許さない。
この右往左往ぶりは一体何か。イギリスの今の状態を見ていると、「我を忘れる」とはこのことだと、つくづく思う。イギリスとの付き合いがそれなりに長い筆者にとって、これは実に意外な事態だ。何はなくても我を忘れることだけはない。それがイギリス魂だ。そう体感的に確信してきた。どんな時でも、自分を外から見ることができる。だから、自分をネタに笑いが取れる。そこにイギリスらしさの真髄がある。そのはずだった。
だが、今のイギリス人に、自分たちのブレグジット騒動を自嘲するゆとりはなさそうだ。結構、必死になってしまっている。大人げない。
我を忘れるのは、きっと彼らが自分を見失っているからだろう。思えば、筆者も二つのイギリスを知っている。一つが、我が少女時代から変わらないゆとりのイギリスの顔だ。大人のイギリス。自嘲的ユーモアを自虐性なく発揮できるイギリス。二つ目は、1990年代から前面に出てきた顔だ。ダイアナ妃に熱狂するイギリス。労働党を「ニュー・レイバー」に変えた政治家、トニー・ブレアが売り出そうとしたニューでクールなイギリス。
クールになろう。今風になろう。この風潮が、ロンドンの街並みをひたすらワサワサ、ギラギラしたものに変貌させてきた。その中で、イギリス人たちはどんどん自分を見失い、自信喪失に陥ってきた。自信がない者は、すぐにむきになる。我を忘れる。思い出すべき自我が思い出せない。だから、焦って、ことのほか我を張ろうとする。
筆者はイギリスのEU離脱にずっと賛成してきた。だが、それは我を忘れる前のイギリスを前提にしてのことだ。先行きがとても心配になってきた。
※AERA 2018年12月24日号