* * *
東日本大震災で壊滅した造船所の再建の歩みを写した野田雅也さんの作品「造船記」にはときおり小さな島が写り込んでいる。井上ひさし原作の人形劇「ひょっこりひょうたん島」のモデルといわれる岩手県大槌町の蓬莱島(ほうらいじま)だ。この島が写っていることで周囲の風景が大きく変わっても同じ場所を撮り続けていることがわかる。
「周囲200メートルくらいのかわいらしい島です。漁師たちは漁に出る前に『ひょうたん島』に必ず行って、弁天さまにお神酒をささげ、手を合わせてから出港する。町の人々にとっては非常に心のよりどころになっている島です」
■屋根の上の遊覧船
野田さんが東北の被災地に向かったのは震災発生の翌日、2011年3月12日だった。3週間ほど被災地を取材して東京に戻り、再び被災地に向かう生活が始まった。
「当時は週刊誌『週刊現代』などで連載もしていたので、震災直後から1年間はあちこちの被災地をまわっていました」
蓬莱島のある大槌町赤浜地区に目指したのは震災発生から1週間後の3月18日だった。
「『はまゆり』という遊覧船が民宿の屋根に乗り上げた。そこが赤浜地区だった」
野田さんは04年にスマトラ沖地震が起きた際、大津波で壊滅したインドネシアの都市バンダアチェを取材した。
「そこで民家の上に乗り上げた漁船を撮影した。震災直後にヘリから写したはまゆりの映像を見て、バンダアチェとまったく同じ状況だということがわかった」
はまゆりの空撮映像は世界中に流れ、東日本大震災の象徴となっていた。
野田さんはがれきでふさがれた海沿いの幹線道路を迂回(うかい)し、道幅の狭い峠を越えて赤浜地区に入った。
「現地に滞在したのは1時間ほどで、ほとんど誰にも会わなかった。ただ、はまゆりを撮りに行ったという感じです。そのとき、ヘリコプターが飛んできたので、パチッと撮った。その写真に壊滅した岩手造船所が写っていた。本当にたまたまなんですけど」
造船所が写っていたことに気づいたのはずっと後のことで、この場所に10年以上も通うとは想像すらしなかった。
■半信半疑で始めた撮影
4月6日、野田さんは再び赤浜地区を訪れると、岸辺のがれきの中から工具を拾い集める船大工と出会った。「あの船さ、おらほのほうから流れたべ」。そう口にする船大工の視線の先にあったのはあのはまゆりだった。
はまゆりが定期検査のため岩手造船所の第一ドックに入ったのは3月11日午前中だった。午後、甲板で点検作業中に地震が起こった。
最大12.9メートルの津波が赤浜地区を襲った。住民の多くは近くの高台に避難したが、約1割にあたる約90人が犠牲になった。
そんな場所で野田さんが耳にしたのは「やんねばなんねえ」という船大工の声だった。「造船所を再開する。大槌の町にもう一度明かりがともる日まで頑張る」。
しかし、野田さんは信じられない思いがした。