撮影:野田雅也
撮影:野田雅也

「ああ、そうなんですか、という感じでした。とてもじゃないけれど『復興』なんて考えられなかった。本当に色もない、音もない世界だった。そこに遺体があって。ときどき、おじいちゃーん、とかね、肉親を捜す声が聞こえる。余震で津波警報が鳴るたびに高台に避難した。その場所にいること自体が危険だった。そんな状況で事業を再開するとか、またこの場所に住むとかいうのは、にわかには信じがたい話だった」

 それだけに船大工の言葉が記憶に残った。11月にまた岩手造船所を訪れたのはその言葉を思い出したからだった。

「本当に再建するのかな、ここに町をつくるのかな、と疑問を感じながら造船所と大槌町に絞って撮り始めた」

■「なんであんただけ?」

 どのように造船所の取材を始めたのか、尋ねると、野田さんは「へへっ」を笑い、「いつもながら、ふらりとですよ」と言う。

「本当に、取材をさせてください、と言った覚えもなくて。いろいろと話を聞きながら、自然に撮影を始めたという感じです。後で事務所の人が『なんで、あんただけいいんだろうね』って言っていた。社長はほかのメディアは一切シャットアウトしていたみたいです」

撮影:野田雅也
撮影:野田雅也

 造船所には津波で流された船がどんどん運ばれてきた。写真には到底人力では陸揚げできないような大きな船も写っている。

「どうやって引き揚げたんだろうと、ぼくもびっくりしました。がれきの撤去作業をしていたとき、船のエンジンが見つかったそうです。それを川に1週間くらいつけて、分解して真水で洗い、それを組み上げて、ロープの巻き上げ機を作った。船を引き上げるためのレールは残っていた。この二つがあったことで造船所が再開できると、社長は確信した」

「やんねばならんねえ」と、声を上げたのも社長だった。

「避難所となっていた体育館などを訪ね歩いて、船大工を一人一人見つけては、造船所の再開を手伝ってくれないかと声をかけた。船大工たちも本当によかったと言っています。みんな家を流された。家族を失った人もいた。仕事を一生懸命やることで気を紛らわすことができた」

■復興のいくら一夜漬け

 大きな船の下で何やら作業をする船大工の姿が写っている。

「津波で流されてきた杉の木をかんなで削って、漁に使うたも網の柄を作っているんです。そんな感じで流れてきた廃材でいろいろなものを作っていた」

 真っ先に修理したのは漁協の船だった。11月、修理を完了した最初の1隻が大漁旗を掲げて出航した。

「冬にサケの定置網漁が行われるのですが、それに合わせて漁協の船をまず3隻修理した。三つあった定置網もすべて壊れたのですが、それをつなぎ合わせて網を一つ作った。それで、もういきなりね、震災翌年の1月から海に出た。非常にたくましさを感じました。やっぱり恐ろしいじゃないですか。まだ余震も続いていたし」

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撮っても、撮らなくて