餓死者が続出した。畑を耕し、芋を育てても虫に食われる。毒フグや野草、トカゲを食べて死ぬ者も出た。金子はコウモリを焼いて食べて生き延びた。ヤキトリの味がするそうだ。

 現地の娘を暴行して報復されたり、男色のもつれで殺し合う事件が相次いだ。誰もが生きる意味を失いかけた時、金子は、句会を開いた。季語や季題、五七五の定型にこだわらない「前衛俳句」と呼ばれた彼の作風は、生か死かの緊張を強いられ続けた戦場で培われたものか。金子がかの地で詠み、いつまでも覚えていた一句。

 空襲よくとがった鉛筆が一本

 試作した手榴弾の実験で軍属が爆死した際、金子は戦争は絶対悪だと確信した。同時に日頃は粗暴な軍属たちが、腕がちぎれ、背中を抉られた仲間をみんなで2キロも離れた医師のところに担いでいく姿を見て、人間が生きるということの素晴らしさを改めて思った。

 トラック諸島での戦争体験が、そのまま戦後の俳人・金子兜太の原動力になった。広く知られた事実には前段がある。まだ学生だった20歳の頃、「土上(どじょう)」を主宰していた嶋田青峰と会う機会があり、ここにも投句した。と、ややあって41年2月、嶋田が治安維持法違反で逮捕されてしまった。

“皇紀2600年”だった前年の「京大俳句」会員一斉検挙に始まり、翌々43年までに合計44人の俳人が捕らえられた新興俳句弾圧事件の暴風だった。

 総動員体制下での表現統制が、世界最短かつ遊戯性を楽しむ定型詩の世界にまで及んだのは、当時の俳壇にあった正岡子規以来の花鳥諷詠を重んじる伝統派と、表現形式の革新や思想性、社会性の探求をも目指す新興俳句運動との対立が、そのまま体制と反体制の関係に重ねられたせいもある。嶋田は温厚な人柄で、明治期には伝統派の牙城「ホトトギス」で高浜虚子の片腕だった男だが、「土上(どじょう)」では新興俳句にも理解を示していた。

 嶋田には胸の病があった。59歳だった彼は留置場で喀血(かっけつ)し、釈放後は生ける屍となって死に至る。自宅療養中はかつての同人たちもほとんど訪れず、非業の最期を遂げたという。

 金子は見舞った。この時期までは特段の反戦思想は持ち合わせていなかったと言うが、件(くだん)のいとうせいこうとの対談では、事件当時と現代の日本社会に共通する特質を論じ合った。この少し前に発覚した、さいたま市の公民館が俳句教室で選ばれた護憲デモを詠んだ句の「公民館だより」への不掲載を一方的に決めた、いわゆる「9条俳句掲載拒否事件」を糸口に、

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