「平和の俳句」は15年の元日から1年間の予定でスタートし、2年も延びて昨年末に終了した、東京新聞の名物企画だった。14年に、作家でクリエイターのいとうせいこう(56)と対談し、時代に対する危機意識を確認し合ったのがキッカケだ。やはり15年に作家・澤地久枝(87)の頼みに筆を執り、反戦運動のシンボルとなる「アベ政治を許さない」の揮毫も、この延長線上に位置づけられた行動だ。

「父は戦争を憎む句は以前から詠んでいましたが、俳句以外の場にも積極的に出向き、反戦や平和を強く、広く訴えるようになったのは、いとうさんとの対談あたりからです。歴史にも鑑みて、戦時における文化人の生き方というものを考えたのだと思います」

 金子眞土(69)の回想だ。亡きみな子との一人息子。考古学を学び、埼玉県で学芸員などを務めて、定年後は妻の知佳子と、父親のサポートに徹した。

●戦場のトラック諸島で句会を開く

 金子兜太は1919年9月23日、埼玉県小川町に生まれた。父元春は医師で、「伊昔紅(いせきこう)」を名乗る俳人でもあった。

 翌年から2年間は父の仕事の関係で中国・上海へ。帰国後は秩父郡皆野町で暮らした。明治期における自由民権運動の拠点で、秩父困民党を組織し政府の横暴に抗った土地柄を愛し抜いた。

 晩年の一句。

 われは秩父の皆野に育ち猪(しし)が好き

 猪だけでなく、肉は何でも好きだった。その話が出ると、「人肉じゃないよ~」と、笑えぬブラックジョークを飛ばさずにはいられないサービス精神もまた、金子の金子たるゆえんだった。

 俳句を本格的に詠み始めたのは旧制水戸高校(現茨城大学)時代だったか。先輩の誘いで句会に参加。全国規模の学生俳句誌「成層圏」の常連となり、たちまち頭角を現す。

 人間探求派と呼ばれた加藤楸邨(しゅうそん)の門下で活動した。東京帝大卒業後の日本銀行勤務はわずか3日間。戦局の悪化に伴い、海軍主計中尉として西太平洋における日本軍の拠点・トラック諸島(現ミクロネシア連邦チューク諸島)に送られた。

「秩父の人たちに、戦争に負けたら俺らは食えなくなる。兜太さん勝ってきてくれと頼まれてね。まあ英雄気取りで、南方第一線を志願しました」

 だが戦場とはこの世の地獄だ。トラック諸島は米軍の空襲で航空機270機、艦船43隻を失い、拠点としての基地機能をほぼ壊滅させられたばかり。

 米軍の戦闘機が毎日機銃掃射にやってくる。爆撃機は爆弾を落としていく。ややあってサイパン島の日本軍が全滅すると、食糧や武器弾薬の補給路も断たれた。

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