“情熱の国”で炎があがった。州が独立宣言したのだ。それも日本人おなじみのカタルーニャ。州内も割れて一触即発。一体何があったのか。
マドリードとバルセロナの「エル・クラシコ(伝統の一戦)」が熱い。だがサッカーの話ではない。カタルーニャ自治州(州都バルセロナ)がスペインからの独立を問う住民投票を実施。これに怒った中央政府が州幹部に対し内乱罪などの容疑で捜査を始めた。前州首相らはベルギーで独立運動を指揮すると宣言した。
騒動の発端は10月1日。プッチダモン氏が首相を務めていたカタルーニャ州政府が、中央政府の制止を振り切り、住民投票を強行した。結果、投票率は43%だが、賛成は90%。同氏は賛同を得たとして独立宣言に署名した一方で、中央政府には交渉を求めた。
ところがマリアノ・ラホイ首相の中央政府は、独立宣言の撤回を要求し、聞き入れない場合は州の自治権を停止すると迫った。双方譲らぬまま、27日に州議会が独立を採択し、国会上院はカタルーニャの自治権停止を可決した。プッチダモン氏にかけられた嫌疑は「内乱罪」。同氏をはじめ州政府幹部は「公正な裁判の保証がない」とバルセロナを離れた。
降ってわいたような今回の騒動だが、実は“中央政府”とカタルーニャの対立の根は深く、1714年にまでさかのぼる。バルセロナがマドリードのカスティーリャ王国との戦争に敗れ、自治を失ったのがこの年。人気のサッカーチーム、FCバルセロナの試合で17分14秒に観客が叫ぶ「インダパンデンシア(独立)!」には、屈辱の年を忘れないとの思いが込められている。
さらに1975年まで続いたフランコ独裁時代の抑圧の記憶もとりわけ強く人々の心に刻まれている。
スペイン内戦に勝利し、権力を掌握したフランコ総統は、最後まで抵抗したカタルーニャ州を敵視。自治権を奪い、公的な場所でのカタルーニャ語の使用を禁じ、生きづらさからカタルーニャ語の名前をスペイン風に変えた人も少なくなかった。