発掘以前の天守台跡。駿府城天守台は、明治期に陸軍の連隊を置くために地中に埋められて平坦地とされた。石垣の上部を破壊し、石や土砂で本丸の堀を埋めたという。

 小田原北条氏の滅亡後、家康は関東に移封となり、江戸城を築いて本拠とした。駿府城は秀吉家臣の中村一氏に与えられた。その後、関ヶ原の戦いを経て家康は将軍となり、駿府城には徳川家臣が入る。やがて将軍を辞して大御所となった家康は、慶長十二年(1607)に駿府城に移り隠居城とした。この時、城を拡張して新たな天守や御殿を築くも火災で焼失。家康はすぐに、焼失した天守や本丸御殿の再建に乗り出す。天守が完成したのは慶長十五年のことだった。つまり、家康が築いた駿府城の天守は、天正期と慶長期に二つ、計三つ存在したことになる。小和田さんはこう語る。

「家康が2度目に築いた慶長期の天守も、江戸時代前期には焼失してしまい、再建されることはありませんでした。明治になると駿府城は廃城となり、陸軍の歩兵連隊が置かれることになったため、天守が建っていた土台である天守台も壊されて、その土砂で本丸の堀を埋め立ててしまったんです」

 静岡市は、平成二十八年(2016)から令和二年(2020)まで、駿府城天守台石垣の発掘調査を行った。まず、家康が築いた慶長期の天守台が見つかった。一辺が60mを超える巨大な天守台で、発掘当初から、日本最大規模の天守台であると発表され、話題となった。

※インタビュー構成/安田清人(三猿舎)

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