元満鉄社員 田伏正七さん(99)18歳で渡満、技術者として鉄道の保守・点検などに携わった。戦後は、満鉄の元同僚と都内で電気屋を始め、建物のネオンサインのデザインを手がけた(撮影/野村昌二)
元満鉄社員 田伏正七さん(99)18歳で渡満、技術者として鉄道の保守・点検などに携わった。戦後は、満鉄の元同僚と都内で電気屋を始め、建物のネオンサインのデザインを手がけた(撮影/野村昌二)

 南満州鉄道株式会社、通称「満鉄」。かつて超特急「あじあ号」が広大な満州の原野を走った。敗戦で満鉄は消滅し、今では多くの関係者が鬼籍に入った。戦後72年。満鉄とは何だったのか。関係者の記憶を集めた。

*  *  *

 満鉄に入れば将来は約束されていた。しかも、昭和初期の日本は、金融恐慌(27年)や昭和恐慌(30年)を経て深刻な不況から抜け出せずにいた。豊かさを夢見て、一旗揚げようと野心に燃え中国大陸に渡る若者が大勢いた。「一旗組」という言葉もあった。東京都に暮らす田伏正七さん(99)も、新天地に向かった一人だ。

「金も何もなかったんだけれど、行けば何とかなるだろうと思ったんです」

●給与は日本の3倍

 北海道の出身。37年1月、18歳の時、小樽の印刷屋で働いていた田伏さんは、満鉄で働いていた叔父に誘われ渡満を決めた。山口県下関から船で韓国の釜山に渡り、朝鮮半島を列車で縦断し、ハルビンに到着した。

 同年9月、田伏さんは満鉄の試験を受け合格。ソ連国境に近い北安(現・黒竜江省黒河市)の電気区の信号係に配属となる。職場は日本人だけで100人以上。現地の人を入れるとその3、4倍はいた。

 田伏さんは技術者として鉄道の保守・点検などに携わった。給与は、寒冷地手当など入れると約100円。北海道で働いていた時の3倍近くあった。狭いながら寮も完備され、毎晩そこで酒盛りをした。職場には野球チームもあり、田伏さんはピッチャーやレフトを守った。チームは負け知らずだった、と笑う。

「満鉄で働いたのはわずか8年ですが、職場の先輩から礼儀や言葉遣いも習いました。満鉄は私を育ててくれました」

 栃木県に暮らす冨祐次さん(99)は36年、旧制中学を出ると、満鉄で働いていた親戚を頼り満州に渡った。

 満鉄の試験を受け合格すると、奉天の駅員に。半年後の翌37年6月、冨さんは社内の教育機関の一つ「大連鉄道教習所」の入所試験を受け合格する。教習所は車掌や機関士、駅務員を養成する機関で、出世の登竜門と言われていた。冨さんは言う。

「やはり、満鉄に入ったからには、偉くなりたかったですね」

 1年間、寮に入って学んだ冨さんは、教習所を出ると大連駅で車掌を経て旅客専務へと昇格する。旅客専務は「助役」の身分で、給与は駅員時代の倍近くになったという。

 仕事は、大連からハルビンまで列車に乗っての業務。主に大連─新京間を乗車し、車内の案内や車内乗車券の販売などをしていた。

著者プロフィールを見る
野村昌二

野村昌二

ニュース週刊誌『AERA』記者。格差、貧困、マイノリティの問題を中心に、ときどきサブカルなども書いています。著書に『ぼくたちクルド人』。大切にしたのは、人が幸せに生きる権利。

野村昌二の記事一覧はこちら
次のページ