●企業もスポンサーに
根本的な問題はほかにもある。今、能の公演は多くが一回きり。その日に都合が悪ければあきらめざるを得ない。新聞の舞台評で好奇心をかきたてられても、行動を起こせないという公演形態なのである。
「確かにそうなのです。たとえば『今銀座でやっているお能がとてもよかったよ』という口コミがあって、すぐに行けるのならお客様も増えるのではないか。すでにネットでチケットをお買い求めいただけるサービスも始めましたが、もっと興行形態を考えなければなりません。私は以前、赤坂サカスで行われた催しで『翁』を1週間連続で勤めたことがあります。囃子方は日替わりでしたが、やってやれないことはないと思いました」(家元)
上演時間が長すぎるという声も以前からあった。江戸時代は能1番あたりの上演時間は45分程度だったと言われる。屋外の能舞台で、明るい時間帯に能を5番やるためには今よりはるかに短くなければならない。観客も演目をよく知っていたから、見どころをたっぷりやれば、あとはさらりと流しても十分ついてこられたという。
「父(先代家元・観世左近元正)も『長ければいいというものじゃない』と申しておりました。こういう点でも工夫が必要かと思います。お能と狂言をひとつずつにした短い公演も考えたいです」(同)
観世能楽堂が銀座に来たことで演劇文化が活性化し、若い人にも伝統芸能が見直されればこれほどよいことはない。今後に期待する大手企業などが集まってオフィシャルスポンサー組織「観世倶楽部」も発足した。
家元からは能楽の将来とともに、現代社会における存在意義をいつも考えている──そんな言葉が漏れた。芸にだけ打ち込んでいればよい時代はとうに終わっている。たとえばいつかは起きると言われる東京の大災害。それに備えた帰宅困難者収容事業に自ら手を挙げた家元には、体験からくる強い思いがあった。
東日本大震災が起きた2011年3月11日、松濤の観世能楽堂はちょうど公演が行われる日に当たっていた。開演前の2時46分、すでに観客が集まり始めた時間帯に強い揺れが襲った。家元は外出中だったが、すぐに指示をして、帰宅できない高齢者を含めた観客たちに楽屋まですべてを開放。食料や水も提供した。
「そもそも能は700年間にわたって大災害が起きたり、神社仏閣が倒壊したりした時には必ず『勧進能』を行ってきました。それはすべての能楽師にとって当然のことなのです」
東日本大震災後は、チャリティー公演などで寄付金を集めたほか、家元自ら宮城県東松島市へ足を運び、多くの命を奪った海に向かって、茣蓙の上に端座して鎮魂の謡を捧げた。
「お能とは鎮魂の意味が込められた芸能です。登場するのは天皇、死んだ平家の公達から地獄の閻魔様、生き別れになった子を捜す物狂の母、殺生の罪を背負った猟師などいろいろですが、世阿弥は彼らを使って多くの人々を供養してきました」
世阿弥の人間観の底流にはやさしさがあると家元は言う。今回も観世能楽堂は、1千人もの帰宅困難者を一時的に受け入れられるだけの装備や備蓄品を用意している。
銀座に能楽の新しい風を吹かせられるか。それは観世能楽堂の今後の活動にかかっている。(ライター・千葉望)
※AERA 2017年9月4日号