●老朽化の松濤に悩み
観世能楽堂は43年間にわたり、松濤の高級住宅地の中にあって能楽ファンに親しまれてきた。渋谷駅から徒歩20分ほど。センター街を抜けて東急百貨店の本店を眺めつつ坂を上る。高齢者にとっては移動するだけで大きな負担がかかる上に、人混みの中を行かねばならない。観世宗家・観世清和家元が語る。
「私どもでは公演のたびにお客様にアンケートをお願いして参りましたが、決まって聞かれることは『交通の便が悪い。もっと便利な場所にあるとよい』というご意見でした。お客様はご高齢の方が多いのです。現時点で平均年齢は70代後半になっているかと思います」
建物の老朽化も問題となっていた。維持管理費は年間数千万円もかかることから、家元や関係者も頭を痛めてきた。移転を決意したのは維持管理にコストがかかる上、松濤が住宅専用地域であるため、能楽堂を新しく建て直すにはあまりにも厳しい条件が立ちはだかっていたからだという。
観世能楽堂の将来を模索するうち、銀座6丁目の再開発事業で大災害時の帰宅困難者の収容という条件が掲げられていることを知る。それに一般社団法人観世会として手を挙げたのだ。その結果、新しい能楽堂は災害時、中央区から帰宅困難者を一時受け入れる施設に指定された。そこで所有していた松濤の土地を売却し、テナントとしてではなく区分所有者として「GINZA SIX」に入った。銀座周辺は歌舞伎座、新橋演舞場、帝国劇場、日生劇場、東京宝塚劇場など多くの劇場や映画館が集まる文化の集積地。ここに観世能楽堂が入ることで互いに刺激しあい、さらに魅力的な「場」となっていく可能性がある。
●若い観客の開拓に向け
「ここは多目的ホールとしてお能の公演だけではなく、ここに来れば日本文化のエッセンスが味わえるような催しも考えております。たとえば『室町三兄弟』とも言うべきお茶、お花とセットで楽しめるとか。来てみたら素晴らしいお花を楽しめたり、薄茶をいただいたりする機会があったらいいですね。歌舞伎舞踊や文楽などの公演があってもよい。とにかくこれまでお能になじみのなかった方々にも気軽に足を運んでいただきたく、いろいろアイデアを出していきたいです」(家元)
家元が特に重視するのは若い観客の開拓である。連日、能狂言各流派の重鎮たちが出演した開場記念公演の中で、特に目を引いたのは4月24日に行われた「若手特別公演」だった。開演時刻は午後7時半。忙しいビジネスパーソン向けにあえて通常より1時間遅くし、演目も華やかで動きの多い能「乱」や「石橋」に、家元の嫡男でまだ高校生の観世三郎太の仕舞「高砂」を並べた。狙い通り、普通の公演よりも観客の平均年齢はぐっと若返った。この公演を企画した意図を、家元はこう語る。
「能の中には『井筒』や『東北』のように静かで研ぎ澄まされた演目もありますが、初心者がいくら想像を逞しくしても、よく理解できないかもしれません。それなら、現代の方が自然に楽しめる『土蜘蛛』『道成寺』『船弁慶』のような演目を用意することも大事です。お能は一方通行の芸能ではありません。一般の方が『お能に行ってみたい』と思っていただけるような導線を演者も考えなくてはいけないと思います」
若い観客に親近感を持ってもらえる若手・中堅の能楽師が登場する機会を、今後も積極的につくっていきたいという。終演後はビル内や近隣の飲食施設で食事やお酒を楽しんで帰ってもよい。そこは銀座という土地柄、困ることはない。
だが、若手中心の公演だけでなく、人間国宝クラスの重鎮が勤める舞台を求める客にも応えなくてはならない。新しい発想や実行力が求められるだろう。