「岡村さんが辞めると思っていたが、辞めなかった。それで最後は米倉弘昌さん(当時住友化学会長)に落ち着いた」
このとき東芝として全力で西田を経団連会長にしようという動きはなかった。一方、日商サイドから岡村には任期途中で退任しないようにと強い要請があり、岡村もその要請を受け入れた。西室も後輩の西田のために積極的に財界人事に関与した様子はない。なぜなのか。
●13年に起こった「事件」
実は西室も経団連会長を狙える立場にいたことがある。06年、御手洗に経団連会長を譲る奥田碩(当時トヨタ自動車会長)の後継候補の一人だったのだ。西室も会長就任を望んでいるとみられていた。そんな西室が自分はなれなかった経団連会長に西田を就任させようと汗をかくとは考えにくい。
財界人事の帰趨が東芝首脳陣の結束を緩めていく。さらに決定的な「事件」が起きる。
13年1月、社長だった佐々木が政府の経済財政諮問会議の民間議員に。それまで経団連会長が就任することが多かったポストだ。これは安倍政権の有力閣僚の推薦だったとされ、佐々木の就任は異例だった。しかも佐々木は13年6月に経団連副会長に就くことが決まっていた。安倍政権と関係がぎくしゃくしていた米倉経団連の後継候補で佐々木が浮上したのだ。
その前から西田と佐々木は疎遠になりつつあった。西田を褒めちぎっていた佐々木も社長業に慣れてくれば、自信が生まれてくる。西田への報告も減っていった。そんな時に佐々木にスポットライトが当たったのだ。
会長の西田のいら立ちは募っただろう。指名委員会の委員だった西田は13年6月に佐々木を副会長に棚上げ、子飼いで不正会計のアイデアを発案した田中を社長にすえた。内定発表の記者会見で西田が田中を選んだ理由を「様々な事業部門と海外の経験を持つこと」と言い、原子力部門一筋だった佐々木を暗に批判。佐々木は会見後、記者団に「私は数字をしっかり残した。批判される要素はない」と反論し、仲の悪さをあらわにした。