東芝の社内改革でも、委員会等設置会社(現在の指名委員会等設置会社)に移行したのは日本企業としては比較的早く03年だった。西室はコーポレートガバナンス改革に積極的な経営者とみられていた。
だが今振り返ると、西室時代から始まった改革は内実が伴わないものだった。経営への監視機能を強めるとみられた社外取締役は、経営の現場で頻発した無謀な「チャレンジ」のかけ声を止められなかった。
その西室は00年に岡村正(78)に社長を譲り、会長に退く。委員会等設置会社における指名委員会が03年にできたが当初の委員長は西室だった。会長が次期社長を指名できる“院政”の仕組みだった。
ITバブル崩壊後のリストラは、西室と実直で従順な岡村とのコンビで進めた。いよいよ攻めの時だと05年、西田を社長にする人事を決めたのは会長の西室だ。名門企業で「お公家さん」とも呼ばれていた東芝の中では野心家、やり手だった西田に東芝の未来は託された。
●時代の潮流に乗った
西田時代は「選択と集中」の時代だった。不採算部門から撤退し、成長分野を強化。06年には米原子力大手のウェスチングハウス(WH)を54億ドルで買収するなど荒業に乗り出した。CO2削減の切り札として原発産業が再評価された時代の潮流に素早く乗ったのだ。
その後、西田と不仲になる原発担当役員だった佐々木も07年の取材では「私にはできない決断。西田さんはすごい人だ」と褒めちぎった。当時、経済雑誌や新聞は西田を東芝の改革に果敢に取り組むカリスマ経営者としてもてはやした。私も西田を決断力のある優れた経営者だと何度も記事にした。今では間違っていたと反省しきりだ。
だが西室、岡村、西田、佐々木と一枚岩とみられた関係も微妙に変わり始める。そこにはあろうことか財界人事も絡んでいた。
西田は10年5月まで経団連会長だった御手洗冨士夫の有力後継者と目されていた。
だが、会長就任にはハードルがあった。岡村が日本商工会議所の会頭だったからだ。経団連、日商、経済同友会の財界3団体の二つのトップを東芝が占めるわけにはいかない。西田の経団連会長就任には岡村の日商会頭退任が必須条件だったが、岡村は退かなかった。当時の様子を財界OBはこう打ち明ける。