国鉄が解体し、7社のJRが発足して30年。株式上場を機に、脱テツドウにシフトする会社があれば、お先真っ暗な未来にアタマを抱える会社あり。現在のリストラなど働く人たちの労働環境悪化は、国鉄解体に原点があるとの指摘も。「電車の進化」などさまざまな切り口で30年を検証していく。AERA4月10日号では「国鉄とJR」を大特集。
地域会社のような名前ながら、創業以来、「日本を背負う」意識を育ててきたJR東海。総額9兆円のリニアプロジェクトを進める原動力は、国鉄時代にはなかった、あくなき「利便性追求」の姿勢だ。
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東海道新幹線・東京駅。ピーク時には西に向かう列車が3~4分おきに発車する。民営化のころは多くて1時間10本。30年を経て東海道新幹線は「待たずに乗れる」存在となった。
JR東海は、グループ会社の中でも特色が際立つ。鉄道運輸収入の比率が最も高く、その9割を東海道新幹線(東京─新大阪)が稼いでいるからだ。発足から30年の歴史は、東名阪の輸送力強化と利便性向上をひたすら追求し、「東海」という名前だが、単なる地域会社にとどまらないアイデンティティーを確立していく歴史でもあった。
まず冒頭のように、東海道新幹線は民営化後大きく姿を変えた。1964年の開業以来の黒字路線だったが、国鉄時代にその収益は全国に散らばる赤字路線の穴埋めに使われ、新幹線の増強に還元されることはなかった。東京─新大阪間の所要時間も開業2年目以降、最速3時間10分から長年変わらなかった。この壁を一気に打ち破ったのが、JR東海が92年に登場させた「300系」。最高時速が従来の220キロから270キロになり、「のぞみ」導入と東京─新大阪間の2時間半運転が実現した。
国鉄時代から新幹線設計に関わってきた同社執行役員で、新幹線鉄道事業本部副本部長の上野雅之氏(60)は、「300系で車両設計の発想がジャンプアップした。民営化直後のエネルギーがあったからこそ実現したことです」と振り返る。
JR東海発足直後の87年12月、270キロ運転を目指すプロジェクトがスタートした。スピードアップの最大の障害は騒音や地盤振動対策。徹底的な小型、軽量化に取り組んだ。車体を鋼鉄製からアルミ製にしたことに加え、「3両1ユニット」という考え方を導入。一般人にはわかりにくいが、変圧器のある車両の隣接号車にモーター車を配置する3両1ユニットの方式で機器類を分散し、床下へ高密度に機器を収納することで車体の小型化に成功。100系に比べ重量を25%削ることができた。
●豪華さよりも機能重視
300系導入にあたってもう一つ進めたのが、「標準化」だ。300系以降の東海道新幹線はどの列車もすべて16両編成で定員1323人、1~16号車の定員、座席の位置も同じになるよう決められている。トラブルで使用車両が変わっても、指定した席に座れるようにするためだ。100系の時は存在した2階建て車両や個室車両なども、300系導入以降はすべて1階建てに統一された。乗客の利便性に直接結びつくわけではないが、「装置の組み合わせが標準化されることで、同じ品質で安定した車両製造やメンテナンスが可能になる」と上野氏は言う。
カモノハシのように年々伸びる東海道新幹線の先頭車の車体デザインだが、このデザインコンセプトも「機能重視」。北陸新幹線などに導入されている「グランクラス」のような高級シートの導入も、標準化という発想からすれば「ない」という。